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オルダス・ハクスレー『永遠の哲学―究極のリアリティ』

☆mediopos-3016  2023.2.19

人は人
永遠は永遠

たとえ
「汝はそれなり」だとしても
人と永遠という実在とのあいだには
ほとうもない距離がある

禅者が指で月を指すとき
指しか見ていないのがもっぱらであり
たとえ月を指していることを知ることができても
それだけで実際に月を観ることにはならない

『永遠の哲学』の著者
オルダス・ハクスレーは一八九四年にイギリスで生まれ
一九六三年に六十九歳でアメリカで亡くなっている

訳者によれば「一九三五年頃を境にして
「反民族主義、知的貴族主義者から転向し、
すべての人が仁愛(chariy)で結ばれる社会をめざす
理想主義者になった」という

本書は「永遠の哲学」のアンソロジーとして
一九四六年に刊行されていて
古今東西のいわゆる神秘思想家の章句をテーマ別に集め
それに関して自身の解説が加えられている

「永遠の哲学」というように「哲学」と銘打ってはいるが
哲学や文筆を職業としている人たちの言葉は
「たいがい受け売りであり、二番煎じ」だという理由で
ここに収められてはいない

とはいえ紹介されている章句と解説も
それらは「」(括弧)付きのもので
月を指していることを知るにとどまることはいうまでもない
それでも指だけを見て云々しないための
豊かな知恵を得ることはできる
本書には修行的なことは記されていないが
それが記載されていたとしても
「」(括弧)付きであることに違いはなさそうだ

科学者はこうした「永遠」を探求することはない
先のたとえでいえば月を指す指しかみないまま
そこには指しかないということができるだけである
たとえ科学者が月を指さしていることを認めたとしても
「科学では説明できない」ということしかできない

さて扱われているテーマは以下のとおり

「汝はそれなり」「根拠とは何か」「人格・聖性・神の化身」
「世界における神」「仁愛」「苦行・無執着・正しい生業」
「真理」「宗教と気質」「自覚」「恩寵と自由意志」
「善と悪」「時間と永遠」「救い・解脱・悟り」
「不死の死後の生」「沈黙」「祈り」「苦しみ」「信」
「神は侮られるものならず」「宗教はかくも大なる禍を生じえたり」
「偶像崇拝」「感性本位」「奇蹟」「儀式・象徴・秘蹟」
「霊的修行」「忍耐と規律」「観照・行動・社会的効用」

ひさびさに本棚で本書に目が留まったので
数十年振りにいくつかの項目を拾い読みをしてみたのだが
かつて読んだときよりも少しばかりではあるが
「月を指す指」という理解から
月を指しているのだという理解に近づいてきてはいるようだ

「私はそれなり」ではあるのだが
「私」から「そこ」までの距離は永遠ほどに遠く感じてしまう

■オルダス・ハクスレー(中村保男訳)
 『永遠の哲学―究極のリアリティ』(平河出版社 1988/3)

(「はじめに」より)

「「永遠の哲学」という言葉はライプニッツの造語(philosophia perennis)から来ているが、「永遠の哲学」ということ自体は、物と命と心の世界の実体を成す神的な「実在(リアリティ)」を認識する形而上学にせよ、神的な「実在」に似ているか、ひいてはそれと同一の何かを人間の魂の中に見出す心理学にせよ、あらゆる存在に内在すると共にそれを超越している「根拠」を知ることが人間の最終目的であるとする倫理学にせよ、いずれも記憶を超えた遠い昔からあった普遍的なものなのだ。「永遠の哲学」の萌芽は世界各地の原始民族の伝承の内に見られ、さらに完全に発展した形での「永遠の哲学」は高次元の宗教のすべての内に確固とした地位を占めている。ライプニッツ以前と以後のあらゆる神学に共通する最大公約数ともいうべきこの「永遠哲学」が初めて文字として書かれたのは今から二千五百年前のことで、それ以来、この究めつくすことのできないテーマは、アジアならびにヨーロッパのすべての宗教的な伝統の観点から、すべての主要言語でくり返しいくたびも取り扱われてきた。」

「本書は「永遠の哲学」選集(アンソロジー)である。が、アンソロジーとはいえ、文筆を職業とする人たちの書いたものはほとんど含まれておらず、哲学を解説してはいるものの、いわゆる哲学者の言葉もほとんど含んでいない。その理由はしごく簡単だ。「永遠の哲学」というものは、物と命と心からなる多様な世界の実体を成す一にして神的なる「実在」を主に問題としている。が、この一なる「実在」というものは、ある条件を完全に充たして、おのが自身を心の清く貧しい、〝愛者〟となすことを選んだ人でなければ直接把握することができない性質のものなのだ。なぜそうなのか、それはわからない。これもまた、いかにありそうもないことだと思われようとも、好むと好まざるとにかかわらずただ認めるよりほかない事実なのだ。」

「哲学や文筆を職業としている人たちで、霊的な〝知〟を直接把握するための必要条件を充たすうえで多大の努力を行ってきたという証拠のある人は少ない、詩人や形而上学者が「永遠の哲学」という問題について語る場合、それはたいがい受け売りであり、二番煎じなのだ。が、否定できない経験的な事実として、このような直接的「実在」認識を得るにはどうしても書かせないものである条件を十二分に充たすことを選んだ人たちが男女の別を問わず、どの時代にもいたのであり、そういう人たちのうちの何人かが、このようにして把握できた「実在」に関する記述を世にのこし、この「実在」把握という経験にまつわるさまざまな事実を————一つの包括的な思考体系の中で————自分が経験したそれ以外の事柄に関する事実と関連づけてきた。」

「自然科学は経験主義的である。が、その扱う対象は、単に人間としてあるがままに生活している状態にある人たちの経験のみに限定されてはいない。それなのになぜ経験主義的神学者たちは、そういう通常の状態にある人たちだけを研究の対象にするというハンディキャップを自分に課さなければならぬなどと考えているのか、私は理解に苦しむ。それに、言うまでもなく、経験というものをこのようなあまりにも人間的な限界の枠内に限定しているかぎり、経験主義的神学者たちは、いかに最善をつくそうとも所詮はその努力が水の泡となりつづける運命にある。彼らが考察の対象に選んだような素材からでは、いかに才能に恵まれた人であっても、一組の可能性か、よくてせいぜいいかさまの蓋然性しか推知できないのだ。「実在」を直接認識することから生まれる権威ある確実性は、まさしく物事の性質上、どうしても「神のさまざまな神秘を探る観測儀」を道徳面において備えている人でなければわがものとすることができないのである。もし自分が賢者でも聖人でもないのなら、形而上学の領域でなしうる最善のことは、賢者や聖人だった人た————たんなる人間的な生き方を変革したがゆえに、ただ人間的であるだけでは得られぬ種類と分量の〝知〟を獲得することができた人たち————の書きのこした言葉を研究することなのだ。」

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