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石井光太「言葉を失った少年たち/どん底からの国語力再生」

☆mediopos-2568  2021.11.27

最初に引用してある
殺人を犯した少年Aと裁判官のやりとり

たしかに少年Aは
「言葉」を持っていない

自分の感情を言語化することが不得意で
言葉で考えて掘り下げることができない
言葉が足りないので短絡的な言葉を使い
それをそのまま行動化してしまい
それが暴力となって表れる

「言葉」がなければ
単純な喜怒哀楽のなかでしか
じぶんを表現できなくなる
「言葉」を習得させる取り組みが必要だ

少年Aの事例はたしかに極端な事例ではあるが
程度の差はあるがひとごとではない

はたしてじぶんは「言葉」をもっているだろうか

少年Aと裁判官のやりとりからは
裁判官の「言葉」の貧しさも感じられる
この「貧しさ」というのは
じぶんの世界で使う「言葉」から
決して出ようとしない「貧しさ」だ
じぶんの「言葉」が「貧しい」かもしれないとは
おそらくまったく感じていない「貧しさ」だ

裁判官の姿勢が間違っているとか
偏っているとか不誠実だというのではもちろんない
裁判官のもっている「言葉」は
「常識」のなかでしか成立しえないなかで
少年Aに対しているからだ

ここで途方に暮れるのは
「言葉」を持たない者と
社会的な「言葉」を持っている者が
やりとりをすることがどうやって可能かである

少年Aの言葉の貧しさとは異なった
言葉の貧しさが
社会的な「言葉」を持っている者にもある
そのことが意識されないとき
「言葉」は暴力となるか
あるいは洗脳する道具となりかねない

少年Aには常識でとらえられる
〝考える力〟〝他者への想像力〟〝倫理力〟は
感じられないが
社会的な「言葉」とされるなかでのそれには
はたしてどれほどのそれらがあるといえるだろうか

「必要なことを身につけ」
「社会のレールに乗れるようになる」ことは
たしかに切実なまでに必要なことだが
それが言葉の豊かさであるということはできない

ぼく自身数十年にわたって
いわゆる「社会」で働き続けているが
そうした場で使うことのできる言葉が
ほとんどの場合「記号」のようなものでしかないことを
日々切実なまでに感じている
「記号」から外にでることは
その「社会」では生きてはいけないことを
意味しているからだ

そのことを意識しながら生きていくことは
ある種の厳しいまでの「行」とはなり得るが
それで「言葉」を豊かにできるわけではない
じぶんの弱さと言葉の貧しさの前で立ち尽くすばかりだ

■石井光太「言葉を失った少年たち/どん底からの国語力再生」
 (文學界(2021年12月号) 2021/11 所収)

「少年A「ぶっ殺してやろうと思って(被害者の少年を殺害現場へ)連れていきました」
 裁判官「その時に殺意があったということ?」
 少年A[いや、ないです」
 裁判官「でも、殺してやろうと思ったわけだよね」
 少年A「はい・・・・・・。ぶっ殺そうと思いました」
 裁判官「じゃあ、殺そうとしていたんじゃないの?」
 少年A[いや、そう思ったけど、殺そうとしたわけじゃないです・・・・・・。(自分でも)よくわかりません・・・・・・」

 二〇一五年、神奈川県川崎市を流れる多摩川の河川敷で、十八歳の少年が仲間とともに中学一年の男子生徒を殺害した事件が起きた。冒頭の言葉は、その裁判における加害少年と裁判官のやりとりである。裁判官からどの時点で殺意が芽生えたのかと問われたものの、加害少年は気持ちを言葉にできないまま答えるのを諦めてしまった。
 少年院など矯正施設にいる非行少年たちの多くに共通する特徴がある。彼らが「言葉」を持っていないという点だ。
 現在の少年院に収容されているのは、一時代前の暴走族に代表されるような不良少年ではない。虐待、いじめ、貧困、障害といった問題にさらされ、早いうちから人間関係が破綻して不登校になり、現実逃避するように仮想現実の世界にのめり込んだり、社会を漂流するように生きてきた者たちが大半だ。
 今は、不安や怒りを外部(社会や他人)にぶつける「反社会的」ではなく。それらを自分自身に向けて社会不適応となる「非社会的」な子供が増えている。社会にあらざる子供という意味だ。」

「(奈良少年刑務所で教育専門官を務めた)乾井は述べる。
「不幸な境遇で育った少年は、『悲しい』とか『苦しい』とか自分の感情を言語化するのが不得意です。彼らにとって言葉で考えて掘り下げるのはつらいことでしかないので、考えようとしない。だから自己分析が非常に苦手です。一方で、怒りの感情は『むかつく』『殺す』『死ね』など簡単に口にします。これらは他人に向けらるものなので言語化しやすいのかもしれません。でも、言葉が足りないので、短絡的に極端な言葉で表し、そのまま行動に移してしまう。それが暴力という非行として現れるのです」
 冒頭で紹介した川崎の事件の加害者たちも、自分が抱えている問題から目をそらすように、週に五、六日も集まっては酒に酔い、沸き起こる怒りの感情を身近にいる弱い後輩にぶつけ、それが殺人事件にまでつながった。これもまた、言葉を失った者たちの悲しいなれの果てなのである。」

「(「そんとく塾」という学び直しの機会を提供する教育機関の副塾長を務める)原田は語る。
「日本の学校では、国語は身近すぎて軽視されがちですが、生きることに困難を抱えている人の大半は言葉に問題を抱えています。その苦労を知らない頭のいい大人たちが、彼らを「ちゃんとやれ」と叱っても効果がないんです。それなら、きちんと学び直しの機会をつくり、〝考える力〟〝他者への想像力〟〝倫理力〟をつけさせるべきです。
 少年院や刑務所に行った人たちは、これより下はないという『底打ち』体験をしています。だからこそ、そこを出て社会に出た直後は、立ち直るためにスポンジのようにたくさんのことを吸収しようとする。この期間にこそ、我々のような人間が支援に入り、必要なことを身につけさせなければならない。それができれば、彼らは社会のレールに乗れるようになるのです」」

「本稿で見てきたのは、少年院を中心とした社会の底辺で若者たちに言葉を習得させる取り組みだ。極端な事例と思われるかもしれないが、社会で生きづらさを抱える人たちの中には、多かれ少なかれ本稿に登場した少年たちのように言葉を持たないことによって苦境に陥っている者がいる。SNS全盛の現代において、そういう者たちがいじめ、ドラッグ、売春、詐欺といった落とし穴にはまりやすいのは容易に想像できる。
 情報社会に溢れる言葉はかつてないほどの量になっている。だが、それに見合うほど、人々は豊かな語彙を持ち、つかいこなしているだろうか。言葉をつかった自分と他者について思考しているだろうか。むしろ、その反対のことが起きてはいまいか。
 そう考えた時、メディアはもとより、言葉を生業とする人々が現代に果たす役割は大きいはずだ。」

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