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青木奈緒「森へ/昔はものを思はざりけり」

☆mediopos-2409  2021.6.21

子どもは
知らないことを
ただ素朴なままの好奇心から
教えてもらろうと思って
次から次へと聞く

けれど教えてもらったとしても
それでどうしたいというわけではない
知りたいその先の多くは
「ふーん」という適当な納得である
それ以上のものであることは稀だろう

ほんとうにもっている「なぜ」があれば
それはどんどんじぶんのなかで膨らんでくるので
それは次第にじぶんへの「なぜ」になっていく

子どもの「なぜ」を
持ち上げたりする向きもあるけれど
それは子どもに問いをもてるほどの
潜在能力があるというわけではない

その「なぜ」が意味をもつのは
むしろ大人のほうである
子どもの「なぜ」に驚く大人は
じぶんのなかではもう問うことのなくなっている
「あたりまえ」が揺さぶられることを
子どもの失われていない「なぜ」に投影するのだ
そしてじぶんの失われた何かを悲しんだりする

悲しむならばじぶんで
はじめから問い直せばいいのだけれど
おそらくそうする者は少ないだろう
じぶんはもう大人で子どもではないから
そうすることなどできないと思いこんでいるから

ほんとうはいまの生のなかだけでも
生まれてから「今」までのじぶんは
「今ここ」に生きている
年を経ているということは
そこに年輪を重ねているということに他ならない
すべての年輪は「今ここ」に存在している
そしてだれでも「今ここ」から「なぜ」を始め
それをさらに重ねていくことができる

だから年輪はただ年の数ではない
何歳であるかはその人の魂の年齢ではない
魂の年齢はじぶんへの「なぜ」を
どれだけ重ねてきているかということである

幸田文が随筆『木』の「えぞ松の更新」の中で
同行してくださった方に樹齢を聞いたとき
「あなたが推定年齢をつけてみませんか、
森林の中の時間は、人のくらしの中の時計とは、
大分ちがうでしょ」と言われるくだりがあるというが
こういう問いをしてみるのもいいかもしれない

「じぶんでじぶんの
魂の推定年齢をつけてみませんか。
魂の時間は、身体の時間とは
違った流れをもっているでしょうから」

■青木奈緒「森へ 第二回 昔はものを思はざりけり」
 (『coyote No.73 Spring 2021』所収)

「五十年前、祖母・幸田文は、エゾマツの倒木更新を見に富良野にある東京大学北海道演習林(北演)を訪ねた。
不思議なめぐりあわせで私もまた昨年七月、演習林へと向かい、
帰宅してからもそこで目にした光景をしきりと思い返していた。
意図して記憶をたどるではなく、いつのまにか脳裏で自動再生されている。
太くずっしりしたエゾマツの幹をイメージしたかと思えば、大きなシナノキからは木もれ陽が射して光を踊らせ、
豊かに湧き出す泉はあたりをひたひたと潤していた。聞けば、泉の水はおよそ三十年前に降った雨が、
地下の砂礫や岩の裂け目に浸み入り、たゆたい、磨かれて、地表に噴き上がってきたものだという。
すべては演習林の奥深く、季節が移ろうなかで、私が傍観者としてわずか数日、
立ち寄ろうと寄るまいと、何ら変わることなく日々くりかえされ、唯一無二にして悠久にも通じる時を刻んでいる。」

「素人が木に親しもうとして、口をついて出てくる質問は「樹齢は何年ですか」だそうだ。私もエゾマツの倒木更新を見て考えていたのは、「この倒木が生きていたときの樹齢は何年だったのだろう。倒れて何年経つのだろう。倒木の上の稚樹は芽吹いて何年になるのだろう」と、むやみに年数ばかり勘定していた。
 五十年前、祖母・幸田文もどうやら似たり寄ったりの質問をしていたらしい。随筆『木』の「えぞ松の更新」の中に、同行してくださった方にこんなことを言われるくだりがあり。「あなたが推定年齢をつけてみませんか、森林の中の時間は、人のくらしの中の時計とは、大分ちがうでしょ」と。
 今回、私をご案内くださったのは東京大学の教授・斎藤肇先生と北演の先生方だが、(・・・)斎藤先生がつぶやいた。
 「それを知って、どうなるものでもないんですけどね」
 先生はもしかしたら、幾分かはご自分に向けておっしゃったのかもしれない。声の調子にはかすかに自嘲めいたものも感じられた。
 しかし、まあ、なんということか。私は虚をつかれた。
 子どものころ、私が何かやたらに聞きたがると、母は「それを聞いてどうするの?」と逆に質問した。私は答えを持ち合わせていなかった。ただ漠然と知りたい、知りたい欲求を叶えたい、それだけだった。母にしてみれば、それなりの理由があるなら答えを考えもしようが、子どもが成長過程で積み重ねる質問にいちいち答えていたら、時間がいくらあっても足りないということだっただろう。
 この子ども時代の思い出と、木の樹齢が気になることは、根底のところでつながっている。
 本当に樹齢を知りたいのなら、年輪を数えてみなければ正確なところはわからないが、はなからそこまで突き詰める気などありはしまう。憶測の答えが返ってくることは承知の上で、その曖昧さに寄りかかっているような、真摯に向き合う態度ではない気がする。漠然と、木は人より長く生きられるというイメージがあって、樹齢百年と聞けば、とりあえず「すごいなぁ」と思い、千年なら、その十倍「すごいなぁ」と感じるのだろうか。逆に五十年ではすごくないのか。頭の中は空っぽで「ふーん」と、ただなんとなくわかった気になるけれど、いったい木の樹齢を知って何をわかったつもりになっているのだろう。
 自分なりにどうにか見当をつけたい、イメージを引き寄せたいという欲求は、確かにある。だが、「ふーん」と思う、その正体を探ってみると、心の奥底で、木は人とは違う、得体の知れない、理解の届かないものと思っている節がある。だから、自分が知っている年単位の尺度で網をかぶせて、「その程度か」と把握したい。五十年ではたいしたことはない。千年になると太刀打ちできない、自分の知っている年単位では把握しきれないものを感じる。やっぱり木はすごいのだ、と。適当に納得して終わらせてしまう。」

「では、木や森林を研究していらっしゃる先生方は、実際にはどこをどうご覧になっているのだろう。
 総じて年ごとの種(たね)の出来具合は留意点のひとつとなるようで、木にとって子孫を残すいとなみというだけでなく、森に住む動物の食料の多寡にもつながる。年によって豊作、凶作の波があり、それは木一本の体調によるものではなく、ある一帯の同じ樹種でなぜか同調する。天候が引き金となるのか、樹木同士で何か他に伝達方法があるのか、解明できていないことも多いようだ。「秋になって木がどっさり種をつけているのを見ると、なんとなく嬉しくなります。別に食べられるわけでも、集めるわけでもありませんが」とおっしゃる先生がいて、こちらにも素直に喜びが伝わる。
 一方、木にとっての害虫や病気の研究をしていらっしゃる先生方の感情はちょっとひねりがきいていて、研究では木が虫に負けないよう、病気にかからないようにと日々研鑽を積んでいらっしゃるのに、森の中でそうした昆虫や幹にできた虫こぶを見かけると、「おお、こんなところにいたか」と、やっぱり嬉しくなるという。
 先生方に共通しているのは、森林の一員としての感じ方だろうか。私は自分で木と親しくなりたいと言いながら、圧倒的な緑の中に身を置くと、どこか所在なく、自分で自分に傍観者の烙印を押していた気がする。」

「では、どうしたら良いのだろうと思っていると(・・・)
 「外国語を覚えるのと同じですよ。最初はちんぷんかんぷんですけれど、基本単語がわかるようになると、あとはどんどん語彙が増えるのと一緒です。三十か、五十種くらい覚えると、全然別の科なのにアジサイの仲間とガマズミの仲間はよく似ているなぁ、とか、チドリノキはクマシデに葉が似ているじぇれど、対生だからやっぱりカエデの仲間だ、というような種同士の比較ができるようになるので、芋づる式に多くの樹種を覚えられるようになります」

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