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仲野徹「こんな座右の銘は好かん!」 第16回 終わりよければすべてよし(2023.08.24) (ミシマ社 みんなのミシマガジン)

☆mediopos3209  2023.8.31

これまでにもとりあげたことのある
仲野徹「こんな座右の銘は好かん!」も
第16回 終わりよければすべてよし(2023.08.24)で
「中締め」(ネタ切れ)となったとのこと
とりあえずの最終回ということで
この「銘」を選んだようだ

「終わりよければすべてよし」は
「成果重視」の考え方でいわば結果主義
それに対するのは「経過重視」の考え方だろう

ちなみに「終わりよければすべてよし」には
シェイクスピアの
〈All's Well That Ends Well〉という
原点があるとのこと

さらにはそれがことわざ化したのは
第二次大戦後のことで
それ以前はただ「終わりが大事」という
表現があっただけだという

その背景には戦後経済成長の時代になり
「成果重視」が必要とされた
ということもあっただろうが

「経験がどのようなものであったかは、
その経験の全体ではなく、
ピーク(絶頂)時と終わり(エンド)の出来事や
それに対する感情で判断してしまう」という
行動経済学で「ピーク・エンドの法則」と呼ばれるものも
そもそも人間にはあるのかもしれないという

たしかに人の死に際しても
臨終の際の心のありようが重要だというので
それがたとえ「ピーク」ではないとしても
「終わり」はそれなりに重要であることは確かだ

とはいえ「こんな座右の銘は好かん!」なので
ここではそれに対する若干の異議として
「笑えるときには思いっきり笑う。
そういう姿勢が幸せな人生をおくる上で
いちばん大事なことではないか」と提案されている

さらには
「終わりをよくしようと思いすぎる」のは
「なんかさもしいような気もする」とのことで
「終わりよければすべてよし」ではなく
「「終わりよければそれもよし」くらいの
大らかな気持ちのほうが」いいのではないかと

最近の世の中は
結果のためには手段を選ばずといったありさまなので
たしかに「それもよし」といったくらいに
しておくのがいいようにも思う

しかも「結果」は
ただ金儲けをすればいいというようなものではなく
そこに「質」がともなってはじめて「よし」なので
「質」をともなった「結果」とするためには
やはり「経過重視」つまりプロセスが鍵になる

死に際しても
そのときだけ念仏をとなえれば済む
というのは非常手段でもあるわけで
重要なのはそれまでに
充分に霊的認識を深めておくことだろう

■仲野徹「こんな座右の銘は好かん!」
 第16回 終わりよければすべてよし(2023.08.24)
 (ミシマ社 みんなのミシマガジン)
https://www.mishimaga.com/books/zayunomei-sukan/005507.html

「いつものように「ことわざ辞典」をひいてみる。どれにも載っていて、岩波ことわざ辞典には「物事の締めくくりがうまくゆくならば、途中がどうであっても問題にならない。要は最後が大事だということ。」とある。意外なのは、きちんとした出典が存在することで、それもシェイクスピアだ。

 『All's Well That Ends Well』という戯曲があるらしい。その邦訳が『終わりよければ全てよし』なのだ。(・・・)

 もっと意外なのは、日本でことわざ化した時代だ。同じく岩波の辞典によると「日本では第二次大戦後になってからことわざ化したようだ」とある。(・・・)それ以前は単に「終わりが大事」と言っていたらしい。「終わりよければすべてよし」には、過程はどうでもええんやという意味がこめられているから、ニュアンスがだいぶ違う。

 ざっくりした分け方だが、成果重視と経過重視という考え方がある。最近ではそうでもないような気がするが、日本人は経過重視がメインとされてきた。こういった傾向が「終わりよければすべてよし」といった考えが戦後まで入ってこなかった理由かもしれない。

(・・・)工業化社会、そして、イノベーションの時代になり、日本でも成果主義が広まったのは時代の必然なのかもしれない。考えてみたらイノベーションというのは成果主義の極致である。(・・・)

 そのような時代の流れだけでなく、人間には、終わりよければすべてよし的な性癖がすり込まれている可能性も高い。行動経済学で「ピーク・エンドの法則」と呼ばれるものがある。経験がどのようなものであったかは、その経験の全体ではなく、ピーク(絶頂)時と終わり(エンド)の出来事やそれに対する感情で判断してしまう、というものだ。

(・・・)

 しかし、世の中の出来事のほとんどはこれほどシンプルではなかろう。(・・・)

 将棋棋士、あの永世名人・大山康晴のライバルだった升田幸三をご存じだろうか。記録にも残るが、より記憶に強く残る棋士で、「人生は将棋と同じで、読みの深い者が勝つ」、「着眼大局 着手小局」など数多くの名言を残している。(・・・)

 その升田幸三が残したとされることばに「人間、笑えるときに笑っておけ。いつか泣く日がくるのだから。」というのがある。もちろん最後に笑えればそれにこしたことはない。しかし、そうとは限らないのが人生ではないか。さすがは升田幸三、大好きな格言だ。

 ぬか喜び、という言葉がある。広辞苑には「あてがはずれて、よろこびが無駄になること。また、そのようなつかの間の喜び。」とある。たいていの人は、ぬか喜びをしてあほらしかったと落胆して終わるようだが、はたしてそう考えるべきだろうか。

(・・・)

 経過重視というようなたいそうな話ではない。笑えるときには思いっきり笑う。そういう姿勢が幸せな人生をおくる上でいちばん大事なことではないかという提案である。確かに後になって泣く日がくるかもしれない。そうなるかもわからんけど、うれしいことがあればとりあえず思いっきり笑う。で、もしラストがあかんかっても、まぁあの時笑えてよかったとしよう、と考える。

 「終わりよければすべてよし」というような偏狭な考えより、「終わりよければそれもよし」くらいの大らかな気持ちのほうがええんとちゃいますやろか。終わりをよくしようと思いすぎるのって、なんかさもしいような気もするし。

 なにも終わりが悪くてもいいとか言いたいのではない。できるだけ終わりはよくすべきだ。現役時代、論文を書くときにいちばん気にしていたのは、内容はもちろんだけれど、ラストをうまく締めくくること。「読後感を爽やかに」というのが、論文の書き方セミナーをするときに声を大にして強調するポイントだったくらいなのだから。

 65歳を越え高齢者の仲間入りをした。最近、母親が亡くなったこともあって、人生の終わりをよく考えるようになった。論文と同じように、できたら、知り合いたちに爽やかな印象を残して死んでいきたい。けど、これまでの経緯からそれはもう無理かもしらん。そうではないことを祈ってるけど...。

 でも、エンド、ええ人生やったと思いながら死んでいくことはできそうな気がする。それは自分だけの問題なんやから。そんなことを考える時、オーストラリアの緩和ケア看護師ブロニー・ウェアの書いた『死ぬ瞬間の5つの後悔』(新潮社)という本の内容をいつも思い出す。 

「自分に正直な人生を生きればよかった」
「働きすぎなければよかった」
「思い切って自分の気持ちを伝えればよかった」
「友人と連絡を取り続ければよかった」
「幸せをあきらめなければよかった」

 が、その5つである。

 やっぱり、終わりをよくするには、漫然と暮らしてたらダメで、そのことを意識して生きていかなあかんということですわな。それも、できれば楽しみながら。その方向でこれからもがんばりまっせぇ、ということで、連載を終わりまする。これまでのご愛読、まことにありがとうございました。」

◎仲野 徹(なかの・とおる)
1957年大阪生まれ。大阪大学医学部医学科卒業後、内科医から研究の道へ。ドイツ留学、京都大学・医学部講師、大阪大学・微生物病研究所教授を経て、2004年から大阪大学大学院・医学系研究科・病理学の教授。2022年3月に定年を迎えてからは「隠居」として生活中。2012年には日本医師会医学賞を受賞。著書に、『エピジェネティクス』(岩波新書)、『こわいもの知らずの病理学講義』(晶文社)、『仲野教授の そろそろ大阪の話をしよう』(ちいさいミシマ社)、『考える、書く、伝える 生きぬくための科学的思考法』(講談社+α新書)など。

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