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ジェームズ・エルキンス『なぜ美術は教えることができないのか/美術を学ぶ人のためのハンドブック』

☆mediopos-3171  2023.7.24

教えることが可能なのは
言語ゲーム的な場のなかで
知識を記憶しそれを蓄積し
模倣によって技術を習得すること
その延長線上にあることである

そのために過去の事例を用い
それをもとにある種の成果や評価を
行うことはできるだろうが
そこで生まれる「意味」は
あくまでも過去において
標準化されたものでしかない

新たなものを問い
創造に向かってそれを開いていくとき
過去の「意味」はむしろ足枷となる
踏まえておく必要があるとしても
それは問いを閉じることにほかならない

まして「芸術」の領域において
教えること
そして学ぶことは
日常的な言語ゲームからは外れたところにある

芸術的創造を行う際
過去に評価された作品の基準でのそれは
模倣の域を出られない

どんなに技術的にスキルが高くても
そこに新たな領域はひらかれない

美術を学ぶ人のハンドブックである
『なぜ美術は教えることができないのか』において
実際に美術を教えているジェームズ・エルキンスは
四つの「結論」を導き出している

1「美術を教えるという考えは修復したがいまでに不合理」であり
 「私たちは、教えてはいない」
2「私たちは技術を教える以上の何かをしている」とはいえない
3「美術の教え方においてプログラム上の変更」の提案は意味がない
4「かにして美術が教えられるのか、
 それを理解しようとしても意味をなさない。」

過激なイメージもある「結論」だが
美術の授業では
あらたな表現へ向かっている以上
何をいかにして教え学んでいるのか
教師も学生もほとんど分かっていない
というのがじっさいの本音のところなのだろう

だからといって美術の授業そのものが無意味だなのではなく
そこで起こっていることを
常に問い直していくことが不可欠だということだ

知識や技術をその歴史を含めて学ぶことは重要だが
芸術は過去の模倣ではない
教えることができるのは過去とその意味であり
未だ生まれていないものを教えることはできない

ポエジーはポイエーシスという作ることからきているが
芸術的な創作において作ることは複製技術ではない

芸術だけではなく
教えることと学ぶことは
基本的に自己教育による開かれであって
過去のデータにもとづいた
精密な複製や編集は
過去の模倣の域を出るものではなく
未知の道はそこにはない

■ジェームズ・エルキンス(小野康男・田畑理恵訳)
 『なぜ美術は教えることができないのか/美術を学ぶ人のためのハンドブック』
 (三元社 2023/5/9)

(「序論」より)

「本書のタイトルを「いかにして美術を教えることができるのか」としても変わりはなかったかもしれない。しかし、私は概して美術学校で起こることに関して悲観論的である。美術を教えることができると考えるか否かにかかわらず、いずれにせよ、いかに教えいかに学ぶか私たちはほとんど分かっていない。スタジオでの美術指導では数多くの興味深く価値あることが起こる。私はいまでもスタジオで指導を行っているし、指導の意義を信じている。しかし、私はスタジオでの美術指導には美術を教えることは含まれていないと思っている。」

「批評は美術指導の中でも最も奇妙な部分である。というのも、批評は他学科のほとんどすべてに見られる最終試験とは異なるからである。批評は試験よりも形式が自由であるし、何を語るのかを制御する規則はほんどない。多くの場合、批評は美術を教えること全体を凝縮して示している。」

(「結論」より)

「意味は形成されねばならない。意味は自然に存在するものではなく、美術を教えることの中で見い出すのはことさら困難である、本書のいくつかの箇所で、いくら努力しようとも、美術の授業で行われていることの理解をそれほど進めることはできないと思うと言ってきた。私はこの態度を懐疑論的であると同時に悲観論的と呼んだ。そして三つの暫定的な結論を下した。(・・・)

  一、美術を教えるという考えは修復したがいまでに不合理である。いついかに教えるか分からないがゆえに、私たちは、教えてはいないのである。
  二、美術を教える企ては混乱している。なぜなら、私たちは技術を教える以上の何かをしているかのようにふるまっているからである。
  三、美術の教え方においてプログラム上の変更を提案することには意味がない。

 これらの結論のうち第一のものは本書のタイトルの答えとなるものである。第二の結論は美術の指導が救いがたいまでに合理性を欠く理由を指し示している。第三の考え方は、実践がそこまで合理性を欠くのなら、実践で大きな見直しを企てても、ほとんど意味がないということである。それは子どもに患者の手術をさせるようなものだろう。(できないことはないかもしれないが、子どもの単純な発想はおそらく患者の複雑な人体構造に対応しないだろう。)

 それでも楽観論を支持する根拠はあると私は言った。というのも、私たちは自分のしていることについて学びを深めようと常に努力することができるし、私たちの学びが何かの役に立つと常に期待することができるからである。たとえ美術の授業で起きることのほとんどが合理的ではないとしても、それでも授業について考えることには意味がある。しかし別の見方もある。美術を教えることから合理的な意味を引き出そうとし続けるのはいい考えかどうか問うことも可能なのである。」

「ほとんどの教化では明快さと分別が究極の目標である。それらを批判するのは分別のあることではない。やっかいな問題について「はっきりさせ」たり「明快にし」たりするとは、その問題を徹底的な理解し、把握し、完璧に知ることである。物理学の法則は明快なときに最善のものとなる(たとえその法則が不確実性や蓋然性に関わるものであっても)。自動車のメカニズムの法則は道理に合っているときに最善のものとなる。それによって理論的な機械工学が日常の修理の問題に適用されることになるのである。しかし同じことは美術の授業にも言えるだろうか。美術学科や美術学校で教えることは、私が知る限り最も興味深い活動である。なぜなら、それはおよそ意味をなす何ものからも最もかけ離れた活動だからである。もっとも精神病は除いての話だが。ある程度の明快さを求めて努力することはいい考えだとの仮定に基づいて、私は本書の全体を書き終えたものの、結局のところ、それがそれほどいい考えなのかどうか確信はない。理解されないことによって作動している何かを理解することがいい考えなのかどうか分からないのである。この主張を定式化することもできるだろう。それが私のリストの最後のものとなる。

  四、いかにして美術が教えられるのか、それを理解しようとしても意味をなさない。」

(「訳者あとがきと解説」より)

「本書は、James Elkins,Why Art Cannot Be Taught:A Handbook for Art Students,2001,University of Illinois Press の全訳である。」

「美術の教育機関として、本書が歴史的に取り上げているのは、主として、ルネサンスから十九世紀に至るまでのアカデミー、二十世紀のバウハウス、そしてポストモダンと呼ばれる二十世紀後半以降の美術学校や大学の状況である。」

「美術の授業は、初等教育から高等教育に至るまで、(一)教員が生徒全員に課題を与え、(二)生徒が単独ないしグループで課題に取り組み、その間、京師が机間を巡回しながら形式ばらない言葉で指導を行い、(三)そして作品に対して教師や生徒が記述的・評価的なコメントをつけ、(四)最後には、展示の工夫をする、という四つの段階の繰り返しで成り立っている。本書はこのプロセスの意味を考える試みだと言えよう。」

「エルキンスはさまざまな著作の中で、美術史の研究者に作品の制作を勧めている。歴史家や哲学者は制作をしない。その一方で、制作者は歴史や哲学を参照し続ける。その非対称性に不都合の種があるのではないかというわけである。たとえ制作をしない者であっても、消え去った前衛を捜し求めるのではなく。「平凡の美術」やその批評を通してスローダウンした概念の旅を続けること、あるいは概念の物質性に触れることはできるだろう。エルキンスはおそらく本書を希望の書として執筆したのである。」

「日本における美術の教育は、何を教えることができるのか、そもそも教えるとは何か、評価はいかにして可能か、そしてそれらをいかにして数値として可視化するかといったことを問い続けてきた。エルキンスのこの著作でも、大学院レベルを中心としているものの、同様のことが問われている。専門的な教化であるとともに全人的な教科でもあるという美術の特殊性についても、そして行政や経営からの要求に苦慮しているという現状においても、本書に親しみをもつ人は少なくないだろう。もちろん、エルキンスのこの著作が何か解決法を教えてくれるわけではない。美術を教え学ぶことを理解しようとする努力を意義あるものとするためには、批評を活発化し、言語化を諦めないことが大切だということを確信させてくれるだけである。」

◎ジェームズ・エルキンス(James Elkins)
1955年生まれ。コーネル大学卒業後、シカゴ大学大学院において制作と論文で美術学修士取得、その後美術史に専攻を転じ、美術史におけるヘーゲル主義の研究で文学修士取得、ルネサンス美術における遠近法の研究で学術博士取得。現在、シカゴ美術館附属美術大学教授。美術史・美術理論・美術批評を担当。美術史、ヴィジュアル・スタディーズを中心に著書多数。本書以降では、美学・美術史・ヴィジュアル・スタディーズについての理論的検討を中心としたセミナーを主催している。近著に、The End of Diversity in Art Historical Writing: North Atlantic Art History and its Alternatives, 2020, De Gruyter, Visual Worlds: Looking, Images, Visual Disciplines, 2020, Oxford University Pressなど。

◎小野康男
1953年生まれ。神戸大学大学院博士課程文化学研究科単位取得満期退学。美学・芸術学。佐賀大学および横浜国立大学の教員養成系学部において美術理論・美術史を担当。現在、横浜国立大学名誉教授。共訳書にジャン=フランソワ・リオタール『文の抗争』、リュック・フェリー『ホモ・エステティクス』、ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『時間の前で』(以上、法政大学出版局)など。

◎田畑理恵
1963年生まれ。津田塾大学学芸学部国際関係学科卒業後、東京学芸大学大学院教育学研究科および東京学芸大学大学院連合学校教育学研究科修了。博士(教育学)。書道を米島清鶴と金子卓義、抽象画をSteven Cushnerに師事。現在は都留文科大学、川村学園女子大学、 山梨県立大学で非常勤講師。近年の個展は、Espace Sorbonne 4(パリ市、2021年)、国立新美術館(東京、NAU21世紀美術連立展内での個展、2022年)。

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