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平尾昌宏『日本語からの哲学/なぜ〈です・ます〉で論文を書いてはならないのか?』

☆mediopos2875  2022.10.1

著者は〈です・ます体〉で
書き上げた論文が却下されたことから
「なぜ〈です・ます〉で
論文を書いてはならないのか?」と問うことから

〈である体〉による〈である世界〉と
〈です・ます体〉による〈です・ます世界〉という
全く異なった二つの世界像=哲学原理を論じることへと向かう

こうしてネット上で書くときにも
〈である体〉にするか
〈です・ます体〉にするかを
迷うことはよくある

基本としてこうした記事のように
特定の二人称に向かって語るのではないときは
〈である体〉を用い
コメントに答えるときなど
特定の二人称に対して語るときには
〈です・ます体〉を用いるようにするが
特定の二人称に語るのではないときにも
ときに〈です・ます体〉のほうが書きやすいこともある

おそらく著者が論文を〈です・ます体〉で書いたのも
内容が〈である体〉の表現よりも
フィットする内容だったからなのかもしれない

ところで〈である体〉も〈です・ます体〉も
つくられた表現である
どちらも「元々は話し言葉だったものを書き言葉にした」
「いわゆる言文一致」ではない
まず基本的にそのことを理解する必要がある
〈です・ます体〉が言文一致であり
〈である体〉がそうでないという違いが問題なのではない

その違いは著者が本書を書くにあたって
当初考えていたタイトル
「世界〈から/に〉」あなたを〈取り除く/取り戻す〉
に表現されている

〈である体〉は世界からあなたを取り除き
〈です・ます体〉は世界にあなたを取り戻すということ

「〈である世界〉の場合、そこには語り手に向かってくる
他者、二人称の他者は存在しないが、
〈です・ます体〉においては、
世界はまさしく二人称の他者を含み、
奥行きを持つことになる」のである

このように「です・ます」と「である」の違いには
人称世界の有り様が深く関わっている

著者が〈です・ます体〉で論文を書こうとしたのは
「二人称の他者を含み、奥行きを持」たせることで
それに適した内容を語ろうとしたのかもしれない

しかし論文における〈です・ます体〉が却下されたのは
客観的に記述し得ない
不透明な世界を避けるよう指示したかったというよりも
おそらく制度的な慣習に従っていない
という理由からだったのだろう
論文とはそういうものだ
という慣習はやはり強固だろうから

■平尾昌宏『日本語からの哲学:/なぜ〈です・ます〉で論文を書いてはならないのか?』
 ((犀の教室 Liberal Arts Lab 晶文社 2022/9)

(「まえがき」より)

「本書は(自分でも驚くのだが)日本語の「です・ます」と「である」について、ただそれだけを論じた本である。だが、その結果として(これも驚いたことに)全く異なった二つの世界像に到達する。そこで私自身はこの本に、その二つの世界像を示唆するため、「世界〈から/に〉」あなたを〈取り除く/取り戻す〉というタイトルを附けた。だが、タイトルとしては長すぎるというので却下された。お説もっともであるが残念である。」

(「第1部 問題編」〜「第3章〈です・ます〉肯定論」より)

「「いわゆる言文一致」は当時に話されていた話し言葉をそのまま書き言葉として採用することではなかった。つまり〈である〉も〈だ〉も〈です・ます〉も、それら全てが「元々は話し言葉だったものを書き言葉にしたもの」ではない、ということである。それらは全て、清水(康行)の言葉を借りれば、「日常の〈話しことば〉の世界とは離れた」ものとして「創出」された「独自の新しい〈文章語〉なのである。」

(「第3部 日本語からの哲学編」〜「第13章 文体から原理へ、学問経由」より)

「〈である体〉は一つの制度である。そして、それと並ぶ文体である以上、〈です・ます〉もやはり一つの制度だと見ることができるはずである。しかし。どうもそうではないらしい。〈である体〉が一つの明確な制度であるとすれば、〈です・ます体〉の方は、いわばそうした制度を崩してしまうような働きをするのである。それというのも、〈です・ます体〉が常に、制度の外部としての他者を内部に含んでいるからである。」

「〈である体〉と〈です・ます体〉は、それぞれに全く異なった世界を描く。それぞれの描く世界を、〈である世界〉と〈です・ます世界〉と呼ぶとすれば、すでにここで〈である体〉と〈です・ます体〉は、そうした二つの世界を生み出すものである以上、単なる文体ではなく。それ自体原理である。
 そして、その最も本質的な差異は、二つの文体が二人称の読者を認めるか認めないかであった。〈である世界〉は二人称の読者となる「あなた」がいては成り立たない。この世界が成り立つためには、「あなた」は抹消されねばならないのである※。一方。〈です・ます世界〉が成り立つには、二人称の「あなた」が存在する必要がある。それゆえ、〈である世界〉と〈です・ます世界〉はそれぞれ、
「二人称のあなたのいない世界」と「二人称のあなたのいる世界」だと言える。
 そして〈である原理〉と〈です・ます原理〉とは、それぞれ「二人称のあなたを抹消する」働きと「二人称のあなたを導入する」働きのことであると考えることができる。
 我々は、一人称、二人称、三人称という人称の概念によって欺かれているところがある。数字を付されることで、この三つの人称は横並びのように見えてしまう。だが、そんなことはありえない。三つの人称があるのではない。人称の関係から成る、二つの異なった世界があるのである。」

「※より厳密に言うなら、ここでは抹消される必要があるのは、著者である一人称複数と読者である二人称との間の他者性それ自体であると言うことができる。」

(「第3部 日本語からの哲学編」〜「第15章 世界内の構成要素」より)

「我々の日常的な意識では、語り手、ないし一人称となる「私」がます存在し、それが時に〈です・ます体〉で語ったり、〈である体〉で語ったりするように見えるかもしれない。しかしこうした見方は全く疑わしい。
 〈である体〉で語る語り手にとって、世界は第三人称として、すなわち客観的に記述し得る透明な世界として現れてきているのに対して、〈です・ます体〉で語る語り手にとって世界すなわち〈です・ます体〉は、それ自体が不透明なものとして現れてくることになる。なぜなら、〈である世界〉の場合、そこには語り手に向かってくる他者、二人称の他者は存在しないが、〈です・ます体〉においては、世界はまさしく二人称の他者を含み、奥行きを持つことになるからである。

このように考えるなら、見通しうる透明な世界に確固とした主観=主体として対峙する〈である世界〉の「私」と、不透明な世界に巻き込まれた〈です・ます世界〉の「私」とは、同じ一人称でも全く異なるものであると言わざるを得ない。」

(「第4部 異論と展開編」〜「第20章 制度と間」より)

「「なぜ論文に〈です・ます体〉を用いてはなたないか」という問題は、〈である体〉と〈です・ます体〉を原理として取り出した今となっては、出発点でしかない。しかし、この初発の問題に戻るためには、〈です・ます体〉の特徴を明らかにするために役立つ。」

「私は、論文は必ず〈である体〉で書かねばならないとは思わないが、確かに〈である体〉がふさわしいような論文のあり方が考えられるとは思う。〈です・ます世界〉が一人称=書き手と二人称=読み手がメインの世界であったのに対して、〈である世界〉では、二人称が背景に退き、もしくは一人称に同化する。その代わりに浮かび上がってくるのが三人称の対象である。そこでは、語られている対象が既にであることが前提になっている。」

【目次】

まえがき

■第1部 問題編
第1章 なぜこんな問題を考えるか
第2章 なぜ論文を〈です・ます〉で書いてはならないのか
第3章 〈です・ます〉肯定論

■第2部 日本語学・国語学編
第4章 「女子ども向き」説
[ノート1]〈です・ます〉とケア
第5章 「話し言葉」説
第6章 「敬語」説
[ノート2]人称詞と敬語
第7章 モダリティ
[ノート3]言語と主観性
第8章 待遇表現論
第9章 文体論

■第3部 日本語からの哲学編
第10章 〈です・ます体〉から〈である体〉へ
[ノート4]〈だ体〉の問題
第11章 〈である体〉の人称的構造
第12章 〈です・ます体〉の人称的構造
[ノート5]文体、ジャンル、混用
第13章 文体から原理へ、学問経由
[ノート6]〈である原理〉と正義
第14章 〈です・ます世界〉と〈である世界〉
第15章 世界内の構成要素

■第4部 異論と展開編
第16章 文体と原理
第17章 二分法を超えて
第18章 我と汝、我とそれ
第19章 生成
第20章 制度と間
[ノート7]愛とケア

結びに代えて
あとがき

付録1 日本語と哲学、従来の研究
付録2 「ですゲーム」、あるいは哲学者たちの文体

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