見出し画像

サイモン・マッカーシー=ジョーンズ『悪意の科学/意地悪な行動はなぜ進化し社会を動かしているのか?』

☆mediopos2993  2023.1.27

ひとの悪・悪意を指摘するのは易しいけれど
じぶんのそれを見据えることは難しい
じぶんの都合の悪いところは見たくないからだ

けれどだれにもたくさんの顔があって
それらの顔を
そして見たくはない顔を
しっかりと鏡に映して見なければ
じぶんがどんな顔をしているか見えてはこないし
それをどのように使えばいいのかもわからなくなる

本書『悪意の科学』では
人間には
利己
利他
協力
そして
悪意という
4つの顔があるという

自分は利他的で協力的であって
利己的でもまた悪意など抱かない
そう思っているとおそらくそこに落とし穴がある

またそれらはどれかが光で
どれかが闇だというのではなさそうだ
光でもあり闇でもあり
光は闇ともなり闇もまた光ともなる

悪意も魂の一部だ
だから
悪意について理解し
それをどのように方向づければいいかについて
問いを深めていく必要がある

悪意には
相手より優位に立ち他者を支配しようとする
「支配的悪意」と
不平等やヒエラルキーに抗い
自分が損をしてまでも相手に害を与えようとする
「反支配的悪意」があるが
それらが必ずしも害悪になるとはかぎらない
そのことを見ていく必要がある

悪意は(集合的なありようも含め)利己的ではあるものの
利他や協力を促すものともなり得るように
悪意には逆説的に「善を促す力がある」ようだ
「不公平をなくすための最強のツールの1つとなることもある」

「馬鹿と鋏は使いよう」という言葉があるが
悪意もその使い方を知ることで活用できることもある

しかしここからがさらなる難問なのだが
じぶんの悪・悪意を見据えて
それを方向づけていくことがある程度できたとしても
世界のなかで行使されているさまざまな悪・悪意を
どのように理解すればいいかということである

重要なのは視点を固定させないことだろう
どんな悪・悪意にもそれなりの視点があり
それぞれの視点のもとでそれらが行使されているはずだ

じぶんから見れば明らかな害悪のようにみえたとしても
そしてそれが実際に害悪であり悪そのものであったとしても
なんらかの視点のもとで見てみるならば
それが「善を促す力」ともなり得るかもしれないからだ
そしてそうなり得る視点や機会がないかどうかを
さまざまな視点から問いなおしてみる必要がある
「馬鹿と鋏は使いよう」なのだから
(とはいえ馬鹿がただ鋏を振り回して
害を与えているだけかもしれないけれど)

そしてあらためてじぶんの「馬鹿と鋏」を
どのように使えばいいかを問いなおしてみると
意外なものが課題も含めて見えてくるかもしれない

■サイモン・マッカーシー=ジョーンズ(プレシ南日子訳)
 『悪意の科学/意地悪な行動はなぜ進化し社会を動かしているのか?』
 (インターシフト 2023/1)

(「はじめに 人間は4つの顔をもつ」より)

「悪意を理解するには、悪意に当てはまらない行動に目を向けるとわかりやすい。コストと利益という観点から人間の行動を考えた場合、他者との交流には基本的に次の4種類があり、そのうち2つは行為者に特別な利益を直接もたらす行動だ。人間は自分と他者の双方に利益をもたらすように行動(協力行動)することもあれば、他者ではなく自分だけが利益を得るように行動(利己行動)することもある。第3の行動は自分がコストを負担して他者に利益を与える利他的行動だ。こうした協力行動、利己的行動、利他的行動については、これまで多くの科学者が生涯をかけて研究してきた。しかし、第4の行動も存在する。自己と他者の双方に害を及ぼす悪意ある行動だ。これまで悪意ある行動は闇の中に放置されてきたが、これは望ましいことではない。わたしたちは悪意に光を当てる必要がある。

 悪意について説明するのは難しい。悪意はまるで進化論に疑問を投げかけているかのようだ。全員に害が及ぶような行動が自然淘汰で失われなかったのはなぜだろう? 本来なら悪意は生き延びられなかったはずだ。仮に悪意が長期的に見て行為者に利益をもたらすのなら、失われずに存在し続けているのもうなずける。だが、長期的利益をもたらさない場合はどうだろう? こうした悪意のある行動はどうすれば説明できるのか? そもそもそんな行動は存在するのだろうか?」

「悪意は明確かつ甚大な危険をもたらす。悪意をコントロールするには、悪意を理解する必要があるが、それにはまず悪意を詳しく検証するほかない。そして、悪意を理解できたと思ったら、今度は別の要素が姿を現し、わたしたちは悪意について誤解していないか改めて考えずにはいられなくなるのだ。アメリカの哲学者ジョン・ロールズは、道徳上の徳は人々が「仲間としてお互いに関して欲することが合理的であるような」性格特性の1つだが、悪意は人間が他者に欲しない特性であり、「すべての人に危害を及ぼす」悪徳であると言っている(『正義論』)。だが、これは本当だろうか? 悪意をより詳しく検証していくと、異なる側面が見えてくる。

 というのも、どうやら悪意には善を促す力があるようなのだ。悪意はわたしたちが自分を高め、何かを創造する助けとなることもある。しかも、必ずしも協力の妨げになるとは限らない。実際のところ、悪意は逆説的に協力を促すこともある。また、必然的に不公平を生み出すわけではなく、不公平をなくすための最強のツールの1つとなることもある。不公平や正しがたい不平等がある限り、人間には悪意が必要なのだ。(…)

 人間の本質は異なる姿を併せ持ったキメラのようだ。わたしたちも世界に利己、利他、協力、悪意という4つの顔を見せている。人間は多面的であり、天使でもなければ悪魔でもない。自分自身を理解するには1つの面だけではなく、自分のすべての面を理解する必要があるのだ。人間は独自の行動のレパートリーを持った順応性のあるサルであり、利益を得るためにレパートリーのどの行動をとるかは、直面している状況によって決まる。悪意は魂に付いた汚れなのではなく、魂の一部なのだ。単に人間には闇の面と光の面があるというわけではなく、闇の面が光を生み出すこともある。」

(「おわりに 悪意をコントロールする」より)

「「第4の行動」である悪意は人間の性質の重要な一部だ。自らコストを負担して他者に害を与える意欲は、良いことにも悪いことにも使える。また、悪意は他者を利用するためにも他者から利用されないようにするのにも役立つ。不公平が存在する限り、人間には悪意が必要であり。悪意がある限り、不公平はなくならないだろう。悪意は問題の一部であると同時に解決策の一部fでもあるのだ。悪意をうまく活用するには、悪意の起源と内部の機能を理解するのが一番だ、悪意を闇に放置すると、わたしたちまで闇に誘い込まれることになるだろう。」

「悪意の理由は単純だ。悪意のある行動をとると得するからだ。短期的に見ると悪意のある行動が、長期的な利益をもたらすことも多い。悪意+時間=利己主義というわけだ。反支配的悪意は乱暴者や支配者、暴君を引きずり下ろす。この場合、悪意は正義を守る手段となりうる。他者に害を及ぼす人に悪意を向けると社会関係資本が増える。そして、ほかの人々からの協力や高い評価という見返りが得られる。一方、自分に害を与える相手に悪意を向ければ、相手はわたしたちにもっと気を使わねばならなくなる。やがて人間は言葉の助けを借りて、コストのかかる罰をより安上がりで安全に使えるようになった。また、神や国家に悪意のある行動を委託するようにもなった。こうして今や人間は、ニーチェのいうところの「盗んできた歯」でかみつけるようになったのだ。

 支配的悪意は他者に水をあけることを目的としている。絶対的な損失を被っても、相対的優位性を守ろうとするのだ。他者を下位にとどめておくためなら、喜んで損失を被る。自分が損をすれば他者がさらに大きな損をする場合も損失はいとわない。こうした悪意のおかげで最下位にならないで済む。また、悪意は競争的環境で成功するのに役立つこともある。歴史的に悪意は繁殖上の利益をももたらしてきた。しかし、悪意は大きな害をもたらす可能性もある。

 苦痛に耐えてでも理性や自然法則、必然性を否定しようとする実存主義的悪意はかなり悲劇的な考え方に思える。もっとも、かつては実存主義的悪意にも何か賢明な理由があったのかもしれない。現在、実存主義的悪意は賢者に対抗する反支配的ツールとして機能することもある。また、実存主義的悪意を利用して、ストレッチ目標を生み出し、従来は思いもよらなかったような目標を達成できるかもしれない。こうした悪意は創造性を高める。

 悪意は闇から生まれた。悪意の目的は、人々を悔い改めさせ、公平性と協力を生み出すことではない。むしろ他者に害を与え、支配体制に変化をもたらそうとする。それでも人々が光へ向かう助けになることもある。悪意は交流し合う人間たちの頭上にぶら下がったダモクレスの剣である。悪意は社会をより公平で協力的なものにしたのだ。」

「仏教徒ですら悪意は役に立つと考えている。仏教には慈悲の怒りという概念がある。ラマ僧であるジョン・マクランスキーは、自分自身や独善的考えを守るために、恐怖と嫌悪感に突き動かされ、怒りで攻撃すべきではないと説く。むしろ愛情深い親がまちがいを犯した子どもに接するように振る舞うべきだ。慈悲の怒りは、相手のためを思い、相手を煩悩や偏見、憎しみ、恐怖、自己防衛性から守るために相手と対峙する勇気を伴う愛情から生まれる。破壊すべきなのは相手ではなく、相手が持っているこれらの特性なのである。慈悲の怒りのために悪意を使えるようになれば、全人類の生活を向上させる新しい強力な方法が手に入るだろう。」

(「解説」より)

「悪意には主に2つのタイプがある。ひとつは「反支配的悪意」だ。相手が不公平な行動をとると、自分が損をしてまでも相手に害を与えようとする。こうした不平等やヒエラルキーに抗う者は「ホモ・レシプロカンス(互恵人)」と呼ばれる。親切で協力的であり、正義に関心を持つが、利他的というわけではない。正義を守ることは脳に快感を与え、自分を犠牲にして他の人びとのために罰(コストのかかる第三者罰)を与える者は、ヒーローのように慕われる。興味深いには、寛大で気前のいい善人までも、こうした悪意の対象となり、引きずりおろされることだ。

 悪意の、もうひとつのタイプが「他者を支配するための悪意(支配的悪意)」である。協力的ではなく、相手より優位に立ち、心理的に支配するために悪意のある行動をとる。こちらは「ホモ・ヴァリタス(競争人)」と呼ばれる。重要なのは、支配的悪意は絶対的な優位ではなく。相対的な優位を狙うこと。たとえば、金額が大きくてもほかの人より少ない額よりも、金額は小さくてもほかの人より多いお金を受けとる。運ではなく、実力で優位に立った者も悪意を抱かれやすいん。才能は運よりも大きな脅威なのだ。そして競争が激化すると悪意は高まって、セロトニン値が下がり、背側線条体という脳の報酬系が活性化する。つまり他者に害を与える喜びが増すのだ。ある実験では競争の要素が加わると、悪意を持つ人のほうがはるかに多くの正解を出すことがわかっている。悪意は競争で他者より秀でるのに役立つわけだ。」

「人間は理性のみで行動するわけではない。ときには理性に逆らってでも、自由でありたいと願う。ドストエフスキーの文学を参照しながら。本書はそんな特性を「実存的悪意」と呼ぶ。理性は高慢であり、特権階級が支配するための手段としても利用される。悪意はこうした支配に抗する反応でもある。また、悪意を逆手にとって良い結果へと導くこともできる。」

「「神聖な価値」と悪意とのかかわりも重要だ。人は神聖な価値を冒とくされると、理性的に考えなくなる。また、男性が社会的疎外を感じると、脳が神聖でない価値に対しても、神聖な価値に似た反応をするという。なお、コストをかけて別の集団に損害を与え、自分の集団に利益を与えようとする性向は、「偏狭な利他性」と呼ばれる。社会的支配志向性が高い者ほど、偏狭な利他性に基づく行動をとりやすい。こうした人々には、保守主義、国粋主義、愛国主義、文化的エリート主義、人種差別主義、暴力や不正行為の正当化……といった傾向が見られる。また、偏狭な利他性を持つ者は自分の集団と一体化し(アイデンティティ融合)、その集団が神聖な価値を象徴している場合には、その集団を守るために命を捨ててまで悪意のある行動をとるようになる。自爆テロのように。」

「たとえ相手に悪意を抱いても、現実的には高いコストをかけて相手を罰しようとはしない。報復を受けるリスクがあるからだ。そこで安上がりな悪意として、ゴシップなどを活用する。ところが匿名のインターネット上では、報復の脅威が消えて悪意が解放される。こうした厄介な悪意はどうすればコントロールできるだろう? 本書はその方法を、仏教の「慈悲の怒り」まで採り入れて考察している。」

〈目次〉
はじめに・・人間は4つの顔をもつ
第1章・・たとえ損しても意地悪をしたくなる
第2章・・支配に抗する悪意
第3章・・他者を支配するための悪意
第4章・・悪意と罰が進化したわけ
第5章・・理性に逆らっても自由でありたい
第6章・・悪意は政治を動かす
第7章・・神聖な価値と悪意
おわりに・・悪意をコントロールする

◎著者:: サイモン・マッカーシー=ジョーンズ
ダブリン大学トリニティ・カレッジの臨床心理学と神経心理学の准教授。
さまざまな心理現象について研究を進めている。幻覚症状研究の世界的権威。
『ニューサイエンティスト』『ニューズウィーク』『ハフポスト』など多数メディアに寄稿。
ウェブサイト『The Conversation』に発表した論評は100万回以上閲覧されている。

◎訳者:: プレシ南日子
翻訳家。訳書は、アレックス・バーザ『狂気の科学者たち』、
サンドラ・アーモット&サム・ワン『最新脳科学で読み解く0歳からの子育て』、
ジャクソン・ギャラクシー&ミケル・デルガード『ジャクソン・ギャラクシーの猫を幸せにする飼い方』ほか多数。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?