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渡辺 一夫『フランス ルネサンス断章』

☆mediopos2929  2022.11.24

「岩波新書クラシックス」ということで
渡辺一夫の『フランス ルネサンス断章』が
限定復刊されている

初版は1950年
すでに70年以上前だが
とりあげられている内容は
いまでも色褪せるどころか
まさに現代において問われる問題が扱われている

中世的キリスト教神学の呪縛から
人間性を解放したルネサンスにおける
ユマニスト九人をとりあげ

旧教か新教か
味方か敵かといった
非寛容な歴史的環境にあって
「自由検討の精神」を堅持し
その時代のなかで苦しみながら闘ってきたかが
興味深く描かれている

こんな九人の話である(ノストラダムスも入っている)
「或る古典学者の話」はギヨーム・ピュデ
「或る出版屋の話」はエチエンヌ・ドレ
「或る神学者の話」はミシェル・セルヴェ
「或る占星師の話」はミシェル・ド・ノトルダム(ノストラダムス)
「或る宰相の話」はミシェル・ド・ロピタル
「或る東洋学者の話」はギヨーム・ポステル
「或る陶工の話」はベルナール・パリッシー
「或る外科医の話」はアンブロワズ・パレ
「或る王公の話」はアンリ四世

渡辺一夫といえば
『ガルガンチュワとパンタグリュエル物語』の
ラブレーの翻訳・研究で知られているが
その姿勢は「ユマニスム」の精神に貫かれている

「ユマニスム」の精神とは「自由検討の精神」である

それは「人間の確立と解放」に関わり
「先ず人間精神の自律性・個人意識の自覚を条件と」し
しかもその条件さえも「検討の対象」とする

そしてそれは当時(宗教改革の時代)
「硬化する教理や観念を一切批判検討する
といふ当然な機能の故に、
度々「異端」的とも呼ばれ」
異端者はしばしば火刑にも処せられた

この「異端」ともされる「自由検討の精神」は
ルネサンスという過去の時代で
すでに獲得され人間性として定着した精神ではない
それは過去の思想としてとらえられたとき
私たちの問題ではなくなってしまう

著者はすでにこう問いかけている

「自由検討の精神は、今もなほ生々としてゐて、
生産や経済や機械文明や
イデオロギーの統制主義をも批判し、
ルネサンスの精神は依然として
人間に衛られ続けてゐるであらうか?」

現代社会を見れば明らかなように
現代はまるで中世のように
姿を変えた「異端審問」に充ちている
政治もメディアも「異端審問」機関のようだ

かつてのルネサンスの時代のように
「自由検討の精神」は
その生みの苦しみのなかから生まれてくるだろうか
現代はまさにその渦中にあるともいえる

■渡辺 一夫『フランス ルネサンス断章』
 (岩波新書 青版 43 第1刷 1950/9/20/第5刷 2022/11/18)

※以下の引用は漢字に関し、旧仮名遣いを新仮名遣いに代えています

「ルネサンスは、中世のキリスト教神学の絶対制度から人間を解放し人間性を確立したといはれる。それはそれで結構であるが、これを別な言葉で言つてみると、古代から人間に与へられてゐた自由検討 libre examen 精神の再認知・復位・前進が行はれたことになると思ふのであり、この精神の持つ逞しい力の故に、ルネサンスは近代の開幕と言はれるのであらう。ところが、この自由検討精神は、ルネサンスに於いて大いな働きを示したにも拘わらず、幾多の抵抗にも出逢つたのであり、その歴史がルネサンスの実相となるやうである。そして、この抵抗とは、勿論、自由検討の対象となることを不利有害と観じた在来の硬化した諸権威からの抵抗でもあるが、ルネサンスの進展途上に於いて、新たに生まれたものではありながら、生命体の必然として、徐々に硬化してゆくものからの抵抗でもあつたのである。コペルニクスやガリレオの考へを受けつけなかつたのもは明かに前者であるが、例へばルネサンスの産物であるカルヴィニズムそのものも、時折後者の例となつたやうにも思はれる。」

「自由検討の精神は、硬化した思想を批判するが、この批判精神から生まれた思想が、人間の肉体に宿る時、大いなる歓喜と大いなる革新をもたらした後で、油断してゐると、この思想は、急速な或は緩慢な硬化をも伴ふにいたる。これを恰も防止訂正しようとする役目を持つのが同じく自由検討の精神であり、人間の確立と解放とは、この精神によつて常に繰り返されてきたやうに思はれる。

 ルネサンスの大いな歓喜については、多くの人々の解説がありすぎるくらゐであるが、この自由検討の精神の苦闘については、あまり多くの解説はないやうに思ふ。特にフランスに於けるルネサンスは、暗澹たる宗教戦争と同義と言つてもよい面もある。そして、結局は、人間同士が同一の神に於いて殺戮し合ふ愚劣さを悟り、言はば、宗教を人間の内心へ避難させ、人間世界に於ける宗教の地位を新たに決定し、宗教の世俗性政治正を超克すべきことをやうやく理解したのは、この苦難に充ちた宗教殺戮の結末であつたやうに思はれる。勿論、この結末は、ルネサンス期に於いて、たゞ端緒についたといふ程度にすぎず、その完成ははるか後の世紀に見られるのではないか? そして、この結末の大成とは、人間が新しい次元を獲得することではあるまいか? と考へてゐるが、その間の歴史は、自由検討の精神によつて貫かれて居り、新しい種が蒔かれ続けてゐると申してもよいのではなからうか? ところが、この新しい次元の獲得を目指す自由検討の精神は、硬化する教理や観念を一切批判検討するといふ当然な機能の故に、度々「異端」的とも呼ばれたのである。

 「異端」 hérésie といふ語の原型たるギリシャ語の hairesie は haireomai(選択する)といふ語から出てゐると言はれるが、「選択する」といふ精神活動こそ、自由検討の精神のなかにあらねばならない。またこの精神は、懐疑主義 scepticisme にも通ずるが、この scepticisme といふ語の原型たるギリシャ語 skeptomai は、「検討する・調査する・探求する」の義であるから、これまた自由検討の精神の一面に他ならぬ筈である。

(・・・)

 自由検討の精神をかくの如き「異端」精神「懐疑」精神と解する時、現世の断定的な約束を絶対視する立場は、この「異端」精神を常に邪魔者扱ひにするものである。そして、これは認めねばならぬ人間的事実であるが、この自由検討の精神ですら、人間の肉体に宿る時には、時折「あまのじゃく」のやうな形をとることもある。尊い自由検討の精神は、呪わしい所謂「反動」の味方となる場合は、さうした変形によって生ずる。しかし、この精神が常に人間の確立・解放・救済といふ目的を持つて進み、既存の次元に更に新しい次元を加へようとすることを怠らぬ限り、上述の如き変形は避けられるものと、私は思つてゐる。この精神は一箇の思想ではない。さうではなくて、思想を肉体に宿す人間が、心して自ら持つべき潤滑油の如きもの、硬化防止剤の如きものである。そして、この精神は、ルネサンス期に於いては、キリスト教の神学的倫理を是正するなり、これに代わつて人間的倫理を樹立するなりするために、ギリシャ・ラテンの異教的人間的な学芸 litterae humaniores に心を潜めた人やユマニスト(人文学者・人本学者)の業績に、極めて明らかに、また具体的に、現れてゐるので、後世の人々は、この精神をユマニスムとも呼ぶのである。ユマニスムを「尚古主義」と考へる人々もゐる。勿論それでも結構であるが、ユマニスムは、決して何なる訓詁の学ではない。古きを探めて新しきを四肢、現在を批判するために過去の人間文化遺産を認知し検討するものであり、常に自由検討の精神として存在するのである。ユマニスムには永遠の告発精神と永遠の回古精神とがしつかりと組み合はされてゐるように思はれてならない。」

「この精神は、先ず人間精神の自律性・個人意識の自覚を条件とする。しかし、この条件すらもが、検討の対象になることが可能である。近代現代に於ける自我や意識や主体性の問題も、この観点から眺めることができるであらう。しかし、人間は、この自由検討の精神といふものをどこまで推し進められるものなのであらうか? 有限な人間として、この精神の無限の発展をどこまで行ひ得るものだらうか? 近代の産んだ無数の思想は、自由検討の精神の初産であり、これらの思想の交替発展も同じ精神によつてなされるとするならば、無数の「神々」が発生してゆくことになりはせぬか? そして、生産と経済と機械文明とによる社会機構にひしひしと制約されてゆく原田尾に見られるいくつもの統制や制度と、これらの「神々」とはどういふ風に調和してゆくものであらうか? 更に、これらの「神々」を一ぱうでは産み、しかもこれを他はうでは否定すらする自由検討の精神は、どういふ風に人間によって用ひられてゆくのであらうか? 「神々」の否定は統制主義を産むが、これも人間の智慧と決断とから生まれたものとして、同じ精神の別な産物と考へてよいであらうか? 中世の宗教と神学との統制主義の破綻から人間が脱出した時に手に持つてゐた自由検討の精神は近代を創造したが、今度は、経済や生産や機械文明やイデオロギーの統制主義によつて一時或は永遠に抹殺される時代がきてゐのではないか? 今後生れる「新しい人間」といふ観念は、果敢なルネサンスの人々とは全く無縁になるのではないか? イカルス Icarus 的な人間は、その分限を超えた努力の故に、今や海に墜落してゐるのであり、象徴的なシジフス Sisyphus としての人間の賞賛が、現在人間史の一齣として提出され、「近代の週末」「新しい中世」が開始されようとしてゐるのではないか? それとも、自由検討の精神は、今もなほ生々としてゐて、生産や経済や機械文明やイデオロギーの統制主義をも批判し、ルネサンスの精神は依然として人間に衛られ続けてゐるであらうか?」

「本書に集められた九人の人々に共通して見られるのは、「異端」「懐疑」の精神である。明らかに新教徒になつたり、明らかに異教思想にかぶれたりした結果、攻撃された場合は、一見しれ明瞭であるが、あくまでも旧教徒の分を守りながら、精神に於いては「異端」的「懐疑」的だつた人々もゐる。ギョーム・ピュデもロピタルもアンブロワズ・パレも終始旧教陣営に留まつたが、事ある毎に新教徒とつきあひ、これを庇護し、そのために様々な疑ひをかけられてゐたことは注目しいてよいし、この三人の子孫が新教徒になつてゐるらしいことも、一考に値するかもしれないし、その間には、色々な問題が秘められてゐるであらう。私は、この三人の精神のはうを、三人の子孫の動向よりも重く見たいのである。また、あくまでも旧教徒として行動しながらも、旧教徒であるといふことが、更に高い世界へ赴くための便利な約束事にすぎなかつたやうな、不逞な精神を持つてゐたらしいノストラダムスやギョーム・ポステルやアンリ四世の場合にも、数々な課題が含まれてゐるであらう。」

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