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石井 ゆかり『星占い的思考』

☆mediopos2856  2022.9.12

「群像」で連載されている「星占い的思考」
(2020年4月号〜2022年3月号)を中心に
石井ゆかりさんの『星占い的思考』が書籍になっている

そのなかに収められている
「占いは「アリ」か。」という
私たちが「占い」に対してもつスタンスについての
示唆的なエッセイをとりあげてみる

エッセイは劇作家の阿藤智恵さんの夢の話からはじまる
夢の中に神様がでてきたのでとっさに
「演劇は、ありますか?」と質問したのだという

「アリ」か「ナシ」か

演劇は「人の生き死にや衣食住に
直接的に関わるものではない」という意味では
「アリ」だとはいえないだろう

その話から石井ゆかりさんは
「占いは「アリ」か。」と問う

そして「原理的には「ナシ」」だと言う

科学的に証明できるようなものでも
統計学的な結果で証明できるようなものでもない

しかし「占いは「ナシ」だからこそ、
存在しているとも言える」のだと言う

そして「オカルト」(隠されている)であるがゆえに
成立するのが占いであると示唆している

隠されているのはおそらく
「自分だけの、たったひとつの真実」で
それを見つけるために占いはある

占いは「裏綯い」だともいわれる
表にはでてきないものの「裏」に隠されている
真実の姿を示唆するものといった意味である

私たちにとって「アリ」の世界は
たしかに必要不可欠なものの世界で
それなしには生きてはいけないが
私たちは光の下に照らされている「アリ」だけで
生きているわけではない

「ナシ」は光の下に置かれれば
幽霊のように存在できなくなるかもしれないけれど
表には必ず裏があるように
裏がなければ表は存在できないように
「ナシ」はそれなりに必要なものだ

そういう意味でいえば
「物」の世界も同様で
「物」は霊という「もの」でもあり
「アリ」と「ナシ」は切り離せない

さてこの9月10日に放送された「ブラタモリ」は
「恐山」が舞台で
そこにある霊泉寺住職の南直哉さんも登場していたが
(その「恐山あれこれ日記」にも記事がある)
そこで「死者」に話しかけるということも
ある意味では「ナシ」の話に通じている

会いたい死者は「ナシ」だけれど
「ナシ」だからこそ「アリ」なのだ

■石井 ゆかり『星占い的思考』
 (講談社 2022/9)

(「占いは「アリ」か。」より)

「劇作家の阿藤智恵さんには過去何度か、インタビューをさせて頂いているのだが、あるとき、面白い夢の話をうかがった。夢の中に、神様が出てきたのである。阿藤さんはとっさに、神様に質問した。
「演劇は、ありますか?」

この「ありますか」は、一般に言う「それってアリかなあ」というのと同じ「ある」だろう。私はそう考えた。「演劇は、アリですか」。
 アリか、ナシか。
 一見、何を言っているのか解らない問いだけれども、多分、劇作活動や自己表現のような活動をしたことのある方なら、一度や二度は考えたことがあるのではないだろうか。」

「音楽は、芸術は、アリなのか」という問いは、わりと本質的なものなのではないか、と私は思っている。人の生き死にや衣食住に直接的に関わるものではない仕事、「それがなくても、生きていくにはこまらない」仕事。もちろん、ファンに訊けば「そんなことはない、是非歌って欲しい、あなたが歌ってくれるから私の人生に潤いがあり、意味が生まれる」と言ってもらえるだろう。それでも、どうしても、アーティスト達は、作家達は、表現者達は、心のどこかに「こんなことは無用なのではないか」という空虚を抱き続け、決して答えの出ない問いを生きていくものではないだろうか。

阿藤さんの夢の話を聞いたとき、私はぼんやりと、「占いはどうかな」と考えた。
 少なくともある場では、完璧に「ナシ」である。たとえば小学生が学校の先生に訊いたら、「占いは、信じてはいけないよ」と言うだろう。あれはインチキだから近づくな、と言うかもしれない。それは正しい。少なくとも今のところ、占いにはなんの科学的裏付けもない。人間理性に照らした合理的な説明ができない「占い」になど、頼ってはいけない。悩みがあったら、信頼できる身近な人に相談し、自問自答し、本を読んだり芸術に触れたりしながら、自分で乗り越えていくべきだ。そう教えるのが、立派な先生だろう。」

「では、大人の社会にとってはどうなのか。占いは「アリ」なのだろうか。
 私は、基本的には「ナシ」だと思っている。大人にとっても同じことである。科学的根拠がない。そして、倫理的にも問題がある。未来を盗み見て現在の方針を決めよう、などというのは、いわば、カンニングではないか。私たちは自分で自分の未来を決定できる、という前提があるからこそ、人の善悪を問える。もし、未来がすでに(読み取れる程度に)決まってしまっているのなら、なんでも「運命のせい」である。犯罪者を裁いたりできないことになる。もちろん、これは極論だ。実際の占いの場では、運命は少なからず変えられる、という立場に立って占いが行われることが多い。しかし、占いは本質的には、その行為において「未来は読める程度には決まっている」という前提に立っている。」

「どんなにたくさん人間がいても、どんなにたくさんの統計を取っても、自分自身の人生は、自分にとってたった一回である。この就職、この試験、この結婚、この病気が、自分にとって今このとき、一回きりのことである。科学的実験なら何度も追試ができるし、「再現性」が何よりも重要だ。でも、私たちには何度も人生をやり直して仮説を立て直し、選択肢を変えてみる、ということは不可能だ。たった一回しかない人生の前では、再現性は問えない。何十万人を母集団にとって「割合」も、参考にしかならない。もとい、参考にすらならないのである。
 占いは、この「一回性」の前に、臆面もなく立とうとするのだ。」

「「占いは統計だ」と言う人がいるが、そうではない。実際、純粋に科学的な手法で占星術についての統計をとった人がいる。しかし残念ながら、今のところ科学的定説となるような結果は出ていない。」

「「占いは、アリか」。そもそも、何に照らして「アリ」なのか。人の役に立つものならあってもいい、というものでもない。覚醒剤はとても頭が冴えて元気が出るらしいけれど、使ってはダメだ。人に喜ばれればいいか。というと、そうでもない。子どもに甘いものだけやまほど食べさせたら、喜ばれるだろうは、ためにはならない。酒や煙草が「大目に見られている」ように、占いもまた、社会に「見逃してもらっている」だけである。実際、占いが禁止された例は、歴史に何度もある。占いが不安を一時的にやわらげ、生きる希望をくれたとしても、酒の酩酊と同様、まやかしに近い。原理的には「ナシ」なのだ。

しかし占いは「ナシ」だからこそ、存在しているとも言える。それが「オカルト」の、本当の意味ではないかと思う。「オカルト」は、「隠す」という意味合いの言葉だ。たとえば、天文用語に「オカルテーション」というのがある。月がアルデバランを隠すような時に使うのだ。「オカルト」という言葉は、一般にはあまりいい意味で使われない。でも、私は「占いはオカルトだ」というのは、ある種の決意表明だと思っている。つまり、社会の外側に置かれ、隠され、場合によっては否定されているからこそ、成立するのが占いなのだ。落語に「昼間の幽霊は怖くない」と言う。占いもまた、そういうところがある。

日本文化では「なかったことにする」「ないことにする」ことが、よく行われる。うすいついたてを立てれば「個室居酒屋」である。襖の向こうからあからさまに気配がしていても、「ないこと」にできる。腹の底で思っていることが口からボロボロ出ても、片っ端から「失言」にされる。
「ないこと」になっている。だから、ついたてとカーテンの向こうで、こっそり占っている。隠されているからこそ、そこにあるかもしれない。自分だけの、たったひとつの真実を探しに来る人がいる。
 占いは、ナシだからこそ、アリなのだ。少なくとも、今のところは。」

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