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野崎歓『無垢の歌/大江健三郎と子供たちの物語』 (生きのびるブックス)

☆mediopos-3100  2023.5.14

ウェブサイト「生きのびるブックス」で
二〇二〇年十二月から二〇一一年十一月まで連載され
書籍化されている
野崎歓「無垢の歌/大江健三郎と子供たちの物語」から

子供は無垢でも純粋でもない
じぶんをふりかえってみるだけでわかる
ふりかえることができさえすれば確かだろう
そういえるのはむしろ歳を経てからのことかもしれないから

子供にも新しい魂もあれば古い魂もあり
無垢であるとすればまた残酷でもある
そしてじぶんもまた
いまだそんな子供のままなところもある

無垢とか純粋とかいってしまうのは
子供を大人から見る視線にすぎず
それは大人が使う子ども言葉のように
どこか嘘っぽくも感じられてしまう

大江健三郎の小説は
決してそんな
「チャイルディッシュ(未成熟で大人げない)」ではなく
「チャイルドライク」であるゆえに
その稀有の作品世界が成立している
重要なのはじぶんのなかの子どもを
失わないでいる「チャイルドライク」であることなのだ

「無垢の歌/大江健三郎と子供たちの物語」の
連載第一回目(本書では第一章)に
文学国語と論理国語のことがでてくる

その両者は切り離せるわけもないのに
言葉のことがわからない人たちが
じぶんは大人目線だと錯誤し
馬鹿げた分けかたをしている
むしろ「論理国語」という発想そのものが
「チャイルディッシュ」ではないか

おそらくそれは
じぶんがいまだ子供でもあること
そしてそこから離れようもないことを
忘れ果てているからとしか思えない

そして文学的テクストのなかに
「論理」も「説明」も存在しないかのように
さらにいえば文学的テクストでしか伝えられない
それらがあるのだということを理解できないでいる

翁童論というのがあるが
翁と童は
メビウスの環のごとく
はたまた陰と陽のごとく
つながりあって離れてはいない

翁というのは成熟であり
童というのは無垢である

文学の国語と
論理の国語というのも
ある意味で文学国語は子供の国語で
論理国語は大人の国語であるともいえるだろうが
視点を変えるとしたら
逆に文学国語が大人の国語で
論理国語こそが子供の国語であるのかもしれず

そんなことを
無意味にさせてくれる国語の魅力を
大江健三郎の作品は豊かに紡ぎ出している
しかもそこには子供の魂でしか表現のできない
言葉が印象的に紡がれている

現代は童も翁も
切り捨られる傾向にあるが
そうした人たちの内的世界には
大江健三郎の描くような
子供はまったく姿を消している

そうした人たちは
内的な子供を忘れ果てているがゆえに
むしろそれらがシャドー(影)のようになって
「チャイルディッシュ」な言葉だけを
力まかせに使うしかなっているのではないか
賢そうにすることがむしろ愚かにさえ見えてしまうように

■野崎歓『無垢の歌/大江健三郎と子供たちの物語』
 (生きのびるブックス 2022.8)

(「第一章 チャイルドライクな文学のために」〜「「文学国語」と「論理国語」」より)

「文部科学省が2018年に告示したその最新改訂版――2022年から施行される予定――には、「論理国語」と「文学国語」なる聞きなれない表現があるらしい。
(・・・)
 そのことを知人に教わったとき、何とも不可解な、そしていささか不愉快な思いにとらわれた。「国語」を「論理」と「文学」に分けられるものなのか。そんなふうに分けるべきなのか?
 やがて明らかになってきたのは、高校2年になったら従来の「現代文B」ではなく、この2つから選択しなければならないということ。そして大学受験等との関係で、「論理国語」を選択する(せざるをえない)生徒が多くなるのではないかということだった。問題はその「論理国語」とは何かということだが、文科省のHPに上がっているくだんの指導要領の文章は、なかなかむずかしくて頭に入りにくい。とにかく徹底して「論理的」、かつ「実用的」な国語を教えることとされている。教材とすべき「論理的な文章」としては、「説明文、論説文や解説文、評論文、意見文や批評文、学術論文など」が想定されている。また「実用的な文章」というのは「実社会において、具体的な何かの目的やねらいを達するために書かれた文章のこと」で、「報道や広報の文章、案内、紹介、連絡、依頼などの文章や手紙のほか、会議や裁判などの記録、報告書、説明書、企画書、提案書などの実務的な文章、法令文、キャッチフレーズ、宣伝の文章などがある」のだという。
(・・・)すぐあとに、こんなきつい一言が続いていた。「論理的な文章も実用的な文章も、小説、物語、詩、短歌、俳句などの文学的な文章を除いた文章である。」

「文学作品との出会いの機会が奪われるだけではない。論理・実用一点張りの文章ばかり読まされたら、嫌気がさしてきて、文章の読解力や表現力はむしろ低下するのではないかと危惧される。さらに本質論として、「論理」と「文学」を切り離す発想があまりにわびしいと思う。どんな論理的・実用的な文章でも、少しでも表現として魅力を湛えているとき、それはすでに文学でありうるのではないか?
 「文学的な文章を除いた文章」――この文言におののかされる。文学はいつでも、いくらでも切り捨てることができる。小説や詩が一切存在しなくたって「国語」は成り立つという発想が見て取れる。」

(「第一章 チャイルドライクな文学のために」〜「大江健三郎を教科書に?」より)

「そんな思いを抱きながら、何の手立てもなく過ごすのみだったところに、一冊の新書が届いて心を励まされた。『ことばの危機』と題されたその一冊の巻頭で、国文学者・安藤宏はこう書いている。
 「たとえば小説や詩歌が『文学的な文章』である、という点では異論はないでしょう。しかし仮に大江健三郎が核兵器の廃絶を『想像力』の重要性と共に訴えている評論を書いていて、教材として採用したい場合、明快な論旨を持っているから『論理的な文章』なのでしょうか、それとも小説家が想像力の重要性を説いているのだから『文学的な文章』なのでしょうか。」」

「大江の評論は「論理国語」と「文学国語」のどちらのカテゴリーに属するのか。教科書作りにあたって、そんな問題に頭を悩ませる担当者は気の毒である。安藤は「若い人たちに読ませたい、魅力的な評論文ほどジャンル横断的なのです」と書いているが、わが意を得たりだ。安藤が実例として大江のケースを持ち出してることもまた、じつに共感できる。大江健三郎こそはじつに豊かな「横断」の実践者だ。評論や論説がそのまま文学になり、文学が同時に評論や論説になる。そんな事態がいくらでもありうることを、大江の作品は納得させてくれる。」

「指導要領で「論理国語」で教えるべき実例の筆頭に上がっているのは「説明文」である。何か読者が知らない、聞いたこともない対象について、文章でわかりやすく説明する。それはいつだってむずかしいことだ。そしてそれがうまくいったとき、読者は単に的確な情報を得たというだけではない、情報には還元できない種類の喜びを味わうことができる。その例として、ぼくの頭に思い浮かんだのは大江の次のような文章だった。短篇連作からなる『「雨の木レイン・ツリー」を聴く女たち』(1982年)の一節だ。
 ハワイには「「雨の木レイン・ツリー」と呼ばれる巨大な樹木が生えているというのだが、いったいどんな木なのか。大江は、登場人物であるハワイ在住の女性の口をとおして、次のように説明してみせる。
 「『雨の木レイン・ツリー』というのは、夜なかに「驟雨(しゅうう)」があると、翌日は昼すぎまでその茂りの全体から滴しずくをしたたらせて、雨を降らせるようだから。他の木はすぐ乾いてしまうのに、指の腹くらいの小さな葉をびっしりとつけているので、その葉に水滴をためこんでいられるのよ。頭がいい木でしょう。」
 レイン・ツリーという名前の由来が語られているわけだが、大きな樹木が雨水を蓄え、やがて枝から雨滴を降らせるさまが目に浮かぶ。「指の腹くらいの小さな葉をびっしりとつけている」という描写がひときわ印象的だ。雨を受け止める葉の一枚一枚までが、きらきらと光を放つかのようだ。
 こうした比喩表現に生命感を宿らせる腕前において、大江は比類のない書き手である。「説明文」とは、対象をよくとらえてその本質に触れるとき、ほとんど詩に近いような言葉の味わいを獲得するものだということを、大江の作品は随所で示している。未知の樹木だったレイン・ツリーは、この数行の説明のおかげで、鮮烈なイメージとなって読み手の脳裏に枝葉を広げることだろう。」

「「説明文」は文学的なものでありうる。そして文学作品をかたちづくるのはそれ自体、明確な「論理」に支えられた「説明文」なのではないか?」

(「第一章 チャイルドライクな文学のために」〜「子供っぽさの魅力」より)

「「説明文」というのはつい、書き手の主観を排した、ひたすら客観的な文章であるというふうに思いがちなのではないか。文部科学省が「論理国語」で教えるべきと考えているのもそういう文章だろう。だがそれとは別の種類の「説明文」があることを大江の一節は示している。その違いとは、何によるものなのか。
 レイン・ツリーを前にして大したものだと感嘆し、「頭のいい」木だと褒める。そんな心の動きには端的にいって、子供っぽいところがある。自然の力に目を見張り、感応する一種の純真さが、レイン・ツリーをめぐる文章を支えている。それは何といっても、大江作品の子供たちがよく体現する資質なのである。」

「子供たちに重要な役割を演じさせる大江作品は、子供時代と強いきずなで結ばれ、子供とつながる想像力に支えられている。作家自らが述べるとおり、「いつでも呼び出すことのできる自分のなかの少年」が存在し続けているのだ。その少年との対話を絶やさないことで、作品には新鮮なヴィジョンと表現がもたらされる。
 文部科学省のいう「論理国語」とは、子供ならではの要素を切り捨てて、大人による大人のための言葉の論理に習熟させることをめざす教科なのだろう。その訓練はもちろん大切だ。ただし、子供の言葉の論理にこそ大人にとって救いになるような何かが含まれているのかもしれないということも、忘れたくないのだが。」

(「第一章 チャイルドライクな文学のために」〜「チャイルドライクな文学」より)

「自分は作家としてデビューした当時から、「子供っぽい・・・・・人間、子供っぽい・・・・・作品」と批評されてばかりいた。『懐かしい年への手紙』(1987年)で、小説家の「僕」はそう回想している。「老人になったならば、子供っぽい・・・・・老人という評判につつまれて生きることになるのじゃないか」と予測されるほどなのだ。
 子供っぽさを「チャイルディッシュ」ととれば幼稚な、未成熟で大人げない、という非難になる。しかし「チャイルドライク」ととれば、無邪気で純朴、素直で可憐という肯定的評価になるはずだ。若くしてのデビューから、まさしく老齢に至るまで、一貫して「チャイルドライク」であり続け、子供の無垢への追憶と志向を保ち続けたところに、大江文学の素晴らしさを見出したいのである。」

「言葉を自分なりの感覚で、自分にとって好ましく面白い形に変形させたり、作り替えたりして用いる。そんなところに脈打つチャイルドライクな創造性は、大江文学の変わらない特色をなす。ところが、そこではしばしば「子供」が危機的な状況にさらされてもいる。そのことが徐々に、大江文学にとって重要なテーマとなっていく。『芽むしり仔撃ち』のラストは次のように結ばれる。
 「僕は自分に再び駈けはじめる力が残っているかどうかさえわからなかった。僕は疲れきり怒り狂って涙を流している、そして寒さと餓えにふるえている子供にすぎなかった。ふいに風がおこり、それはごく近くまで迫っている村人たちの足音を運んで来た。僕は歯をかみしめて立ちあがり、より暗い樹枝のあいだ、より暗い草の茂みへむかって駈けこんだ。」
 この見事なオープンエンディングとともに、大江の小説の原点が刻まれた。「子供」は危機に瀕し、おびやかされ、逃げ場を失ってふるえている。それが大江の小説の立脚する基盤となる。『芽むしり仔撃ち』の数年後には、「子供」の主題はいっそう切迫し、深刻さを帯びて回帰してくるだろう。わが子もろとも、若き作家は危機に直面するのである。その危機を――大江の愛用語でいうならばその「ピンチ」を――どう生き抜くべきなのか。どうすればしのぎ、乗り越えることができるのか。人生に直結した問いに挑み続けることが、大江健三郎という作家をたくましく作り上げていった。その結果、だれよりも果敢な「文学国語」の冒険者でありながら、大江は作品をだれにでも開かれた、人生を考えるための場とすることができた。
 だからこそ、自分が、そして社会もまた、いまや「ピンチ」におびやかされているのではないかと感じるとき、大江作品と向かいあうことは大きな意味をもつのである。」

◎野崎歓
1959年新潟県生まれ。フランス文学者、翻訳家、エッセイスト。放送大学教養学部教授、東京大学名誉教授。2001年に『ジャン・ルノワール――越境する映画』(青土社)でサントリー学芸賞、2006年に『赤ちゃん教育』(講談社文庫)で講談社エッセイ賞、2011年に『異邦の香り――ネルヴァル「東方紀行」論』(講談社文芸文庫)で読売文学賞、2019年に『水の匂いがするようだ――井伏鱒二のほうへ』(集英社)で角川財団学芸賞受賞、2021年に小西国際交流財団日仏翻訳文学賞特別賞受賞。プレヴォ、スタンダール、バルザック、サン=テグジュペリ、ヴィアン、ネミロフスキー、トゥーサン、ウエルベックなどフランス小説の翻訳多数。著書に『こどもたちは知っている――永遠の少年少女のための文学案内』(春秋社)、『フランス文学と愛』(講談社現代新書)、『翻訳教育』(河出書房新社)、『アンドレ・バザン――映画を信じた男』(春風社)、『夢の共有――文学と翻訳と映画のはざまで』(岩波書店)ほか。

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