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ハンス・ブルーメンベルク『メタファー学のパラダイム』

☆mediopos2830  2022.8.17

昨日とりあげたエルネスト・グラッシの
『形象の力/合理的言語の無力』は
一九七〇年に初版が刊行されているが

そこで言及されてはいないものの
今回とりあげたブルーメンベルクの
『メタファー学のパラダイム』がその十年前
同じドイツ語で一九六〇年に刊行されていることからすれば

同様にデカルトの第一規則の論理に対抗し
「想像力の原理」の理念を打ち立てたヴィーコの視点から
「メタファー学」の思想史を構想した本書から
直接的もしくは間接的な影響を受けていることは確かだろう

本書『メタファー学のパラダイム』という
ブルーメンベルクの初期の代表作は先日訳されたばかりだが
読みすすめるうちにグラッシの『形象の力』と
通底したテーマ展開がなされていることに気づき
続いてとりあげてみることにした

その具体的な内容については
訳者による「梗概」が適切なので以下引用部分で
そこから各章で論じられている主要な内容を紹介している

ブルーメンベルクにとってのメタファーとは
「想像力と思考の往還を加速させながら、
イコンとイデアの衝撃的な邂逅を生起させる
中間領域であり、両者を媒介する「触媒領域」である

「形象と言語」「隠喩と概念」「詩的想像力と論理的思考」
といったの異なったものを種混淆にさせることで
人間の生や世界の意味を問う「哲学」「形而上学」としての
「メタファー学」が本書では提唱されている

そうしたメタファーの働きをここでは
「絶対的メタファー」と呼んでいる

「絶対的」というのは
基準や原理という意味で「絶対的」なのではなく
一義的な概念的定義や術語化を拒み
硬直した論理からむしろ離れることで
「むしろ世界の謎を膨らませ、問いの深度を増大させる」

「メタファーは、〈厳密な真理〉どころか、
そもそも〈真理〉を語らない」
「原理的に正解のない問いのかずかずに
〈応答する〉のが〈絶対的メタファー〉」である

メタファー学は
哲学の発生や人間の生の理解を根源的に考察するものであり
さらに哲学だけではなくさまざまな学を横断しながら
固定的な概念化による探求とは異なった
新機軸の思想史として展開される

メタファー学の視点を得ることで
じぶんがともすれば持ってしまいがちな
世界や人間に関するさまざまな固定概念から自由になり
「原理的に正解のない問い」としてとらえかえしながら
問いそのものを深めていくことができる

第8章ではメタファーから概念への移行
第9章では逆に概念からメタファーへの移行が
論じられているが
概念の奴隷となることで
認識がスクエアな領域に頑固に閉じこもってしまうような
信仰的な知性に陥ってしまわないためにも
メタファー学を常に発想法として
機能させておくことが重要だろう

■ハンス・ブルーメンベルク(村井則夫訳)
 『メタファー学のパラダイム』
 (叢書・ウニベルシタス 1146 法政大学出版局 2022/8)

(「序論」より)

「デカルトの第一規則の論理は歴史を無意味なものとしてしまうと最初に喝破したのは、ジャンバッティスタ・ヴィーコ(一六六八−一七四四)である。彼はデカルトの第一規則の論理に対抗して、「想像力の原理」という理念を打ち立てた。」

「まずメタファーは、ある種の「残滓」、つまり神話からロゴスへ向かう途上での遺留物ともみなせる。その点でメタファーは、哲学のそのつどの歴史的状況が、デカルトが言う意味で「暫定的」であることを示している。つまり、純粋なロゴスという到達目標かた見るかぎり、メタファーはいまだ暫定的な表現だというわけである。メタファー学はこの場合、転義的で非本来的な表現を見つけ出し、それを除去する批判的反省を意味する。しかし他方でメタファーは、仮説的にではあるが、哲学的言語の基盤とも言えるし、本来の意味や論理に回収されることに抗う「転義的表現」とも言える。そして「絶対的メタファー」と呼ぶにふさわしい転義的表現が存在することを示すことができれば、概念によっては代替の効かないメタファーの表現機能の確定や分析は、(広義の)概念史の本質的契機となるだろう。(・・・)絶対的メタファーとは、概念的世界を常に豊かにするものであり、しかもその基本的な原動力を何かに転化したり、何かのために消費したりすることがない一箇の触媒領域なのである。」

「これらのメタファーが「絶対的」と呼ばれるのは、それが厳密な「術語」を求める要求に抗う自律性をもつからであり、けっして「概念」へ解消されることがないからである。しかし、あるメタファーが別のメタファーによって代替・代理されたり、より厳密なメタファーによって修正されたりすることは起こりうる。」

(「訳者梗概」〜「序論」より)

「メタファー学(Metaphorologie 隠喩学)とは、隠喩(メタファー)を哲学的思考の基底層と捉えて、その多様な現象形態を考察する試みである。このメタファー学という主題を喚起するために、序論ではデカルトとヴィーコを対比し、メタファーの理解を拡張する道を探る。概念的規定からなる「術語法」を哲学の最も厳密な表現とみなしたデカルトに対して、修辞学の対象とされてた「比喩表現」や「隠喩法」を、ヴィーコは想像力による自由な活動と捉え直し、メタファーの可能性を切り拓く。」

(「訳者梗概」〜「第1章 「真理の力」の隠喩法」より)

「最初に取り上げられる絶対的メタファーの判例は、「真理」のメタファー、それも「真理の力」ないし「力ある真理」(die mächtige Wahrheit)である、「真理とは何か」という問いは、古くから「事物と知性の一致」と定義されてきたが、この形式的な定義では、真理の本質、あるいは真理と人間との関係といった哲学の根源的問いに一義的な解答を与えることは不可能である。そのため「真理」の概念の周囲にはさまざまなイメージが付き纏い、それが真理の理解を拡大し変容させる。メタファーを使用した言語表現は「隠喩法(メタフォーリク)」(Metaphorik)と呼ばれるが、第1章では、哲学や神学の歴史のなかでの真理の「力」の隠喩法の変遷が辿られる。」

(「訳者梗概」〜「第2章 真理の隠喩法と認識の実効的機能」より)

「多様に用いられるメタファーや隠喩法は、そのどれかが絶対に正しいというわけではない。とりわけある問いに対して「絶対的メタファー」によって応答を試みるのは、その問いが決して一義的な解答を許さない根源的で計上額的な問いの場合である。概念的術語よりも幅広い表現力と創造性をもつメタファーは、問いが発せられた場面よりも問いの地平をさらに拡張し、有意義で積極的な応答を暗示し提示する。メタファーにおいては、絶対的な真理や普遍的な洞察が求められるのではなく、自己自身の存在意味を問い求める人間の要求に応えることが重要にとなる。そのためメタファーの使用は、具体的で明確な基準があるわけではなく、歴史的状況に即した有効性を目安にするため、「実効的機能」(Pragmatik)をもつと言われる。」

(「訳者梗概」〜「第3章 真理のイメージについての術語論的・メタファー学的横断面」より)

「これまでの章では、「真理」のメタファーの変遷を通史的・縦断的に概括したが、第3章ではある特定の時代を取り上げ、そこで用いられるメタファーの意味内容を共時的・横断的に叙述する。」

(「訳者梗概」〜「第4章 「「裸」の真理の隠喩法」より)

「修辞学を攻撃する際の哲学側の言い分に従えば、修辞学は真理を衣装で覆い、その外見で一目を欺くのに対して、哲学は真理をありのままに「裸」で露呈する。修辞学は優美な社交や典雅な儀礼といった「文化」に属すとするなら、哲学は一目を憚らず、裸体をあからさまに曝け出す「野蛮」になぞらえられる。「裸」とは、真理の提出形態に関わる隠喩法なのである。「裸」の隠喩法はここからさらに拡張され、神に対して自己を包み隠さずに述べ伝える「告白」のメタファーに繋がると同時に、社会の虚飾を打破し、「自然状態」を回復しようとする「革命」の比喩としても用いられる。こうして、「偽装」を見破り真理に到達することを目指すのか、あるいは真理を「衣装」で覆い、人間の共同体にとって不可欠な美的・社交的慣例を容認するのか、隠喩法においても二つの方向が絡み合って現れる。」

(「訳者梗概」〜「第5章 「未知の土地」と「未完の宇宙」」より)

「人間の認識が古代的な平静な「観想」から近代的な「活動」となったとき、その眼前には、発見されることを待っている未知の領域が開けることになる。それにともない、近代における認識は新大陸の発見になぞらえられ、「未知の土地」、そしてやがては「未完の宇宙」という無限性のメタファーに傾いていく。」
「「未完の宇宙」という思想は、古代的世界観に大きな変更を迫るものである。」

(「訳者梗概」〜「第6章 背景隠喩法としての有機体と機械」より)

「存在者全体としての自然を哲学的に論じる表現のうちには、多くの含意をもつメタファーがその背景として用いられる。そのメタファーは思考する者に、一定の方向や連想の繋がりを示し、思想の大枠をあらかじめ決定するなど、思想家自身も意識しない重要な役割を演じる。本章では、そうした背景メタファーのうち両極端なものとして、古代から多用された「機械」と「有機体」ぼメタファーが論じられる。もとよりこの両者は完全に分離できるものではなく、自然の構造を機械的に説明しながら、なおもそれを生きたものとして描写することも珍しくない。」

(「訳者梗概」〜「第7章 神話と隠喩法」より)

「思想の歴史のなかで用いられるいくつかのメタファーを典型として選び、その変遷過程を追跡することで思想そのものの変質を見極め、概念的術語への影響を論じるのがメタファー学の目標である。その延長線上でメタファーの歴史の類型論やその大系といった構想も考えられるが、メタファー学にとって重要なのは、メタファーの枚挙ではなく、あくまでもメタファーの「移行」である。第7章ではその移行のうち、「神話」と「隠喩法」のあいだの移行を考察する。」

(「訳者梗概」〜「第8章 メタファーとその術語化―「真理らしさ」から「蓋然性へ」」より)

「メタファーの本質である「移行」のうち、第8章は「メタファーから概念へ」の移行を扱っている。その典型的な範型(パラダイム)として取り上げられるのが、「真理らしい〔もっともらしい〕」という一般的表現から「蓋然性」という概念的術語への変遷である。」

(「訳者梗概」〜「第9章 宇宙論のメタファー化」より)

「メタファーから概念への移行を論じた前章に対して、第9章ではそれとは逆に、概念からメタファーへの移行が主題となる。その典型的事例として、科学的・理論的な知見として提示されたコペルニクスの宇宙論が、やがて「人間における宇宙の位置」や「宇宙の中心」のイメージを決定するメタファーへと転じていく歴史的経緯が叙述される。」

(「訳者梗概」〜「第10章 幾何学のシンボルとメタファー」より)

「シンボルが、認識の獲得に貢献し、静態的で硬直したものであるのに対して、メタファーはきわめて複合的な運動である。メタファーは、例えば幾何学的形象によって単純に図式化されるのではなく、それぞれの意味の移行のうちで運動し、「遂行」されるからである。その点で、啓蒙主義で定着した天体モデルは固定的なシンボルとして用いられる傾向が強いが、ストア派ではむしろ地球中心説から人間の地位や倫理学を導き出すメタファーとして誘導的に機能している。このようにシンボルとメタファーはその内容に関しては相互に関係しているが、その働き方が異なってくる。本章では「円環」と「球体」を範例(パラダイム)としてその両者の関係が考察される。」

(「訳者解題 思想史の愉悦」より)

「『メタファー学のパラダイム 』が最初に発表された一九六〇年は、二十世紀の現代哲学が大きく姿を変える転換期に当たっている。同年にガダマーの『真理と方法』が公刊され、それ以降も、フーコー『狂気の歴史』(一九六一年)、ハイデガー『ニーチェ Ⅰ/Ⅱ』(一九六二年)、クーン『科学革命の構造』(一九六二年)、レヴィ=ストロース『野生の思考』(一九六二年)、リクール『解釈について————フロイト試論』(一九六五年)など、現代哲学の画期的著作が堰を切ったように現れている。(・・・)『メタファー学のパラダイム 』は、まさにこのような現代哲学の変革に呼応し、とりわけガダマーの解釈学やカッシーラーの「シンボル形式の哲学」、ゲーレンの人間学、そして前述の「概念史」の企画の進展などを視野に収めながら、ブルーメンベルク独自の路線を歩み始めた最初の試みである。」

「ブルーメンベルクにとってメタファーとは、想像力と思考の往還を加速させながら、イコンとイデアの衝撃的な邂逅を生起させる中間領域であり、両者を媒介する「触媒領域」である。形象と言語、隠喩と概念、詩的想像力と論理的思考の異種混淆によって、人間の生や世界の意味を問う「哲学」あるいは「形而上学」という独自の思考が誕生する。哲学的思考を起動させるそのようなメタファーが、とりわけ「絶対的メタファー」と呼ばれるものである。このメタファーは、基準や原理という意味で「絶対的」であるわけではなく、一義的な概念的定義や術語化を拒絶し、硬直した論理からどこまでも区別される点で「絶対的」〔隔絶的〕である。絶対的メタファーは、根源的な問いに対して何らかの正解を示すものではなく、むしろ世界の謎を膨らませ、問いの深度を増大させる。「メタファーは、〈厳密な真理〉どころか、そもそも〈真理〉を語らない。見かけは素朴でも原理的に正解のない問いのかずかずに〈応答する〉のが〈絶対的メタファー〉である。それらの原理的な難問は、われわれが自主的に立てるのではなく。生存の事実のうちであらかじめ立てられているからこそ、消去できず重要なのである」。

《目次》

序論
第1章 「真理の力」の隠喩法
第2章 真理の隠喩法と認識の実効的機能
第3章 真理のイメージについての術語論的・メタファー学的横断面
第4章 「裸の」真理の隠喩法
第5章 「未知の土地」と「未完の宇宙」―近代的な世界経験のメタファー
第6章 背景隠喩法としての有機体と機械
第7章 神話と隠喩法
第8章 メタファーとその術語化―「真理らしさ」から「蓋然性へ」
第9章 宇宙論のメタファー化
第10章 幾何学のシンボルとメタファー
訳者梗概
訳者解題 思想史の愉悦
索引

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