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濱田陽「存在と時空」

☆mediopos-2404  2021.6.16

統一時空
つまり
「一つの流れに思えている時間、
一つの広がりと考えられている空間」は
ひとがつくりだしたものだ
超越的に与えられた絶対的なものではない

ひとがつくりだした
この統一時空とそのメタファーが
まるで神から与えられた法のように
近代という時代を規定し
人をそのなかで抽象的な存在に変え
まるで絶対的かつ抽象的に世界が存在し
そのなかにわたしたちが
生きているのだと錯覚させられてしまっている

ひとは統一時空をつくりだせるほど
想像力に満ちているともいえるのだけれど
逆にそれによってわたしたち自身は
強力に縛られがんじがらめになっている

測るというのもそのひとつだ
それはみんなである種の基準を
統一してもつことを可能にするが
今度はその統一基準に
自分を合わせなければならないと錯覚させられてしまう
しかし人は座標軸上に抽象的に生きているわけではない

じぶんがそこに関係していないこと
たとえば自分の存在していない生まれる前や死んだ後も
そこに統一時空が存在すると思い込み
そこに不安や恐怖などを持ち込むことにもなる
まるでそれがいまの自分よりもリアルであるかのように

さまざまな批判精神も同様である
じぶんがそこに関係していないことに関しても
それらには関係していないからこそだろうが
抽象的な関係性からくる妄想や被害者意識も伴いながら
みずからを正義とする想像力による空虚な批判を展開する

統一時空が無意味だというわけではない
それをつくりだしたのが人だということが
忘れられてしまっているために
それが人を規定しすぎているということだ
管理社会の闇もそこからきている

「自分が日々、この瞬間、瞬間を重ねている
関係のあり方、関係性を、それ自体、時間、空間である」
というところから生をとらえるのではなく
絶対的に与えられた時空の関係性のなかに自分はいる
という錯誤した生を生きてしまっているということだ
だからそこから離れることができないと思い込んでしまう
いわば統一時空信仰による洗脳である

その洗脳の先兵となるのが
学校であり病院であり経済であり
それらを規定している政治にほかならない

■濱田陽「存在と時空」
 (『未来哲学 第二号』ぷねうま舎 2021.5 所収)

「わたしたちの多くは、自分が日々、この瞬間、瞬間を重ねている関係のあり方、関係性を、それ自体、時間、空間であるとは考えていないだろう。しかし、それこそが、わたしたちのそれぞれにとっての時間、空間なのだ。そして、わたしの時間、わたしの空間、これらをまとめて、わたしの時空、と呼ぶことにしよう。
 わたしたちがあらゆる存在に関わるとき、そこに、このわたしの時間、空間が立ち現れる。時間、空間を関係性ととらえれば、わたしがわたしの関係性をつくり、生きるとき、そこにわたしの時空が生じてくるのだ。
 これは、どういうことだろうか。
 なんとなく一つの均質な流れだと思っている時間、一つの均質な広がりだと考えている空間そのものは、じつは、人自身による特別な関係性からつくられている。もし、この時間、空間をただのつくりものと片付けるのでないなら、同じく人であるわたしの時間、わたしの空間も、取るに足りないものと退けることはできないはずだ。わたしたちは、常に、自分自身の関係性をつくり出しているのだから。」

「一つの流れに思えている時間、一つの広がりと考えられている空間が、人によってつくられているものだとは、どういうことだろう。そのような一つの時間、一つの空間を、以下では、一つであること、可能なかぎり統一することを志向している、という意味で、統一時間、統一空間。そして、まとめて、統一時空と呼んでおこう。」

「統一時空は、人がつくり出しているものだ。人はこれを一つの時間、一つの空間として統合しようとしてきた。測定と演算によって統一を図ろうとしてきた。」
「わたしたちはこの時空に、自らが合わせる。同期する。誰もがそれに合わせると、今度は可能な限りのあらゆる対象を、マッピングして制御できるようになる。
 これは非常に便利な時空だが、わたしたちは、もともと自然から与えられたものと錯覚してしまう。たとえば、数直線で、タテヨコ高さで作図したような無味乾燥な均質な空間が広がっており、均質な時間が流れている、そこに自分は生まれ落ちたのだというように。
 しかし、これは幻想だ。均質な統一された時空。それは、人がつくり出し続け、メンテナンスし続けていかなければ維持できない。原子時計は機械であるから、セシウム一三三原子群がレーザー光を当てることで枯渇すると約五年で使えなくなり、新たな充填が必要になる。」

「現代文明の内奥にさらに足を踏み入れると、通貨・資本は、ある意味でこの統一時空のメタファーとしてとらえることができるだろう。
 それは統一時間を象徴している。まず、統一時間で労働時間が計られる。通貨・資本によって労働の交換価値(時給)が示され、それに動労時間をかけて、人の労働の値段が決まる。(…)時間がお金で買えるのだ。
 また、それは統一空間を象徴している。統一空間で土地の空間が測られる。(…)空間もお金で買える。
 このように、通貨・資本は統一時空のメタファーとして作用し、統一的に制御できる関係性を通じて、あらゆるものに影響を及ぼす。(…)存在の関係性を制御、管理、支配する近代の魔法がこうして可能になっている。
 ドイツの作家ミヒャエル・エンデは『モモ』で時間をテーマにしたが、空間についても、同じことがいえるのだ。いつの間にか、時間どろぼうのみならず、空間どろぼうが暗躍している。
 そして、そこから救われるには、エンデが示してくれた時間の花だけでなく、モモが歌った空間の歌が必要だ。つまり、わたしたち自身が、人や土地、そのほかの存在と関わるリズム(時間)と動き(空間)のあり方にゆらぎを発見し、相互的な自由と調和の関係性を取り戻さなければならない。」

「はたして、人との関係性、人による関心なくして、いかなる時空がありうるだろう。そのような時空に関心をもつわたしたち人とは、どのような時空とは何だろうか。
 人は、自分、人そのもの、生きもの自体が関係しない、存在しない時空を思い描く心的傾向を有しているようだ。自分が生まれる前、死んだ後を、リアルな時間や空間であるかのように思い浮かべてみる。自分という存在とほとんど関わりがないものとして、世界、宇宙を感じる。さらには、人という種が現れる前、絶滅した後を考える。自分が生まれる前の時代、自分が死んだ後の未来、人が登場する前の生命や地球の誕生、宇宙の始まりとされるビッグバンまで。あたかも、自分の存在よりも確かなものとして、自らのなかで、感じられてくることがある。
 そればかりではない。SNSも、学校、職場も、そこに自分が関わる前と、関わった後にも存在していることを、直接知っているように思ったりする。まるで、自分の存在を消して、劇場の舞台をながめているかのように。
 そう、わたしたち人は、自らが登場する前、退場した後の時空を思い浮かべる能力に長けている。この能力が、統一時空をつくり、運用することを可能にしている。(…)
 しかし、この傾向が、また、孤独や恐怖を招きもする。自分が抜けた友人の輪、SNS、卒業し疎遠になった学校、退職した職場は、自分と関係なしに存在している。人という種が絶滅した後も宇宙は存在する。自らが関わらなくても存在するものがある。ときに、それは当たり前の事のように思え、わたしたち自身を苦しめる。(…)
 自らがその生成に参画していない時空の典型例が、統一時空だろう。自分に関わりのないところで創出、維持され、わたしたちは、ただ、同期し、制御を利用し、また、自らもそれに制御される。」

「人の文化は、自分とまったく関係のないところの所産ではなく、わたしも関係しうる、先人の関係性によって生じた事物の積み重ね、継承ではないか。それゆえにこそ、わたしたちは、人の文化に関心をもてるのではないか。
 わたしたちは意識せずとも、様々な事物と関わっていく。そして、関わる対象をあるイメージでとらえ、言葉を与えることもするようになる。
 無数のイメージが、浮かんでは退く。そうするなかで、五つの観念がそれぞれのまとまりをもって、定着を見せ始める。それらの観念を命名すれば。自然、生きもの、人、つくられたもの、人知を超えるものと呼べるだろう。
 常にこの五つのまとまりだけで心象風景を整理しているわけではない。それでもこれらは便利な観念であり、言葉であろう。わたしたち人の、今日にいたる多様な関心と活動領域を、シンプルにカヴァーしている。現実に一人ひとりが何らかの事物ともつ関係性、そこから生じるイメージ、言葉は、きわめて多様で、複雑だ。しかし、そこで起きていることを整理、理解しようとするときに手がかりにできるような、まとまった観念、言葉をわたしたちは求める。それをここでは五つの存在としてとらえてみよう。それが、自然、生きもの、人、つくられたもの、人知を超えるものだ。」

「人は誰でもが共通に使えるような関係性を求めてきた。そうして統一を志向する時空をつくりあげた。だが、多くの人が、一人ひとりが時空の源であることを忘却してしまった。統一されていない時空の、不思議さの感覚を失ってきてしまった。わたしたちは常に、何かに合わせることを強いられている。
 しかし、すべてを合わせようとしても、合わせきれない感覚が残る。
 わたしたちは、概念だけで時空をとらえているのではない。わたしたちにとって、自然、生きもの、人、つくられたもの、人知を超えるものも、たんなる概念ではない。それらは、概念として積み上げた言葉ではなく、心身に響いている言葉だ。そして、このわたしは不思議なそれらと、込み入った関係性を生きている。そこに、自分自身の時間も、空間も現れてくる。こうして現れる時空を、統一時空と並べ、比べてみる。忘却されているいくつもの時空と、統一を志向され続ける時空の、両方をながめてみよう。
 そうすれば、時空が、無味乾燥な、均一、均質なものと考えることはどうしてもできない。均質に見えるものの根底にある虚構を明るみに出さざるをえない。」
「人は自然でもあり、生きものでもある。生きものは自然でもある。そして、人と人でない生きもの、生きものと生きものでない自然との間は、人自身の認識、経験によって異なり、変化していく。」

「生命と文化の時空について、これを広義では、生命の時空、文化の時空の両方を合わせた意味とし、狭義では、生命の時空の基盤に立って展開される文化の時空を表すこととしたい。
 生きもの、人は常に、存在と存在の関係性の織りなす時空の多様性の上に生きている、という意識をわたしたちは育むべきなのだ。便利な統一時空は、人工を一方の極に推し進めた所産であり、つくり続け、メンテナンスすることで維持されるものだ。他方で、リアルな生命と文化の時空の多様性こそ、わたしたちが根底にもつべき二十一世紀の感性ではないだろうか。」

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