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床呂 郁哉[編]『わざの人類学』

☆mediopos2701 2022.4.9

「もの」はたんなる「物質」ではないように
「わざ」はたんなる「技術」ではない

近代以降の通念でいえば
「人間はエージェンシー(行為の主体性・能動性)を
備えた主体として特権化され、
逆に非人間の「もの」は死せる客体として、
人間の駆使するテクノロジーによって
一方的に統御される対象である」とされ

そうした技術観は
人間の労働を機械によって
代替し得るとするような「脱身体性」や
特定の場所へに依存せず
適用・応用可能になるような
普遍性を志向する「脱場所性」(普遍性)を志向しているが

それはあくまでも理念であって実際としては
理念とは異なった様相を呈しているようだ

ほんとうのところ「物質」とは何なのか
また「技術」とは何なのか
わたしたちが知りえているのは
わずかにその操作可能な部分であるにすぎない
それは言葉を論理化してとらえようとしても
それは言葉の働きの一部でしかすぎないようなものだ

技術とはテクノロジーだけを意味するのではなく
「自分自身の身体に関わるような実践、
たとえば、歩行する、座る、食べる、などといった
極めて平凡で「自然」な行為のなかにおいてさえ」
「「技法」と呼びうるような側面が介在している」ように
科学技術だけの問題に収斂させることはできない

本書『わざの人類学』の視点が興味深いのは
近代化の過程は
M,ウェーバーが「世界の脱魔術化」といったような
前近代的な呪術的な世界観からの解放なのではなく
SF作家のA.C.クラークが
「十分に発達した科学は魔術と区別ができない」と言ったように
むしろとくに現代に到っては「世界の再魔術化」にほからない
のではないかというところである

AI開発の現場においても
プログラマーの開発者のあいだでは
「黒魔術」というスラングが囁かれるようになっているように
技術として成立しているにもかかわらず
その技術そのものが説明できないような事態があるのだ

その意味でも「もの」や「わざ」を
「呪術的/技術的」「アート/テクノロジー」
「伝統的技術/近代的技術」などの二分法を超えて
とらえなおすことが求められている

■床呂 郁哉[編]『わざの人類学』
 (京都大学学術出版会 2021/11)

(「序章 「わざ」の人類学のための序章」より)

(「1 「もの」から「わざ」へ」より)

「そもそも人間社会の営みは、単に人間同士の関係だけではなく、それ以外にも自然・環境や他の生き物をはじめとする各種の「もの」との関わり抜きには成立しえない。そうした多様な「もの」との関わりの過程では、さまざまな技術や技法が必要となってくることも改めて言うまでもない。さらに言えば、自分自身の身体に関わるような実践、たとえば、歩行する、座る、食べる、などといった極めて平凡で「自然」な行為のなかにおいてさえ、(・・・)ある意味では「技法」と呼びうるような側面が介在していると言って過言ではない。
 こうして人間の実践や営みのきわめて広範は領域のなかに、広義の技術や技法の側面が少なからず介在していることを確認できる。」

(「2 近代(西欧)的な技術観の再検討」より)

「デカルト以降の通念的な技術観においては。人間はエージェンシー(行為の主体性・能動性)を備えた主体として特権化され、逆に非人間の「もの」は死せる客体として、人間の駆使するテクノロジーによって一方的に統御される対象であるとされる。

 さらに付言すれば。この技術観は脱身体性、脱場所性(普遍性)への志向を特徴としている。脱身体性とは、近代的な各種の機械の使用に代表されるように、なるべく生身の身体へも依存を減らし、ないしそれを機械などで代替していくような指向性を指す。この観点から言えば、これまでの技術の歴史とは、もともと人間が生身の身体を使って行っていた筈の肉体労働をはじめとする営みを、さまざまな道具、家畜、機械などによって補助し、補強し、あるいは置き換え、代替していくことで、逆に従来の身体性への依存を軽減させていく過程であったと言えるかもしれない。さらに現代社会においては、肉体労働だけでなく、計算・設計等をはじめとする各種の知的な作業でさえも、コンピュータやAIなどによって次々に代替されつつあることも周知の通りである。

 また、脱場所性も通念的=近代西欧的な技術観におけるもう一つの特徴だと言えるだろう。ここで言う場所性とは、技術が、なるべく特定の場所性(ローカリティ)への依存を脱して、どこでも適用・応用可能になるように普遍性を志向する傾向を指す。

(・・・)

 ここで述べてきた脱身体性や脱場所性などを含む通念的、近代西欧技術観の特徴はあくまでも理念型である。(・・・)いわゆる近代的なテクノロジーに関しても、その(理念ではなく)実践の諸相に目を向ければ、実はここで述べてきた「理念」と実体は少なからず異なる様相を呈している事実に注意を喚起することも本書の狙いである。」

(「3 伝統的・在地的技術をめぐって−−−−設計主義と非設計主義」より)

「近代的な技術観においては、主体としての人間が客体(自然・環境・「もの」ないし客体化された人間)などの対象を自らの意図や設計図に基づき操作・統御・制作できるという統御(設計)主義的な発想が基調をなしている。(・・・)
 こうした設計主義的なものづくりに代表される近代的な技術観においては、技術が働きかける対象としての自然や素材は、いわば受け身で不活性の客体 −−−− 古代ギリシャで言うヒューレー −−−− としての様相を呈しており、言いかえればそれは人間の意のままに加工・制御されるための受動的な材料として捉えられがちである。

 これに対して、いわゆる伝統的・在地的な技術の実践は、ここで述べた設計主義的なものづくりとは大きくその様相が異なってくる。
 (・・・)
 伝統的・財知的技術における制作は、必ずしも素材としての自然を人間がその意図に沿って自由に加工・介入するというイメージではなく、むしろ制作者と自然との間のいわば即興的な相互作用を含んだ複雑な絡み合いのプロセスとして捉えることが可能である。さらに言えば、伝統的・財知的技術においては、その実践が製作者の個別具体的な身体性や場所性に大きく依存すると言える。」

(「6 テクノロジーから「わざ」へ−−−−技術概念の拡張」より)

「そもそも西欧思想史の文脈では、「テクノロジー」は比較的新しい概念であると言える。歴史的にはこれにおおまかに相当するものとしてギリシャ語の「テクネー」という概念を挙げることができる。ただし、テクネーは技芸、工芸、手仕事、芸術、さまざまな技法一般などを含みうるものであり、現代的なテクノロジーよりも遙かに緩やかな概念だったと言えるだろう。

 これに対して、現代的な意味における狭義のテクノロジーという概念は、19世紀頃になったはじめて一般化すると言ってよい。」

「本書でいう「わざ」は、必ずしも通念的、ないし近代西欧的文脈における体系化された狭義の「テクノロジー(技術)」に限定されるのではなかく、むしろ「テクネー」的な性格を有する各種のローカルな技法であるとか、芸術的な実践等も含む広義の技芸一般を含みうる緩やかな概念として用いることとしておきたい。」

「非西欧近代的な技芸実践は、(・・・)「テクネー」としての性質を少なからず帯びることがあると言えよう。この文脈において自然は、もはや単なる受け身の不活性の客体(オブジェクト)でもなければ、また人間が最終的な制作物を加工するために利用される単なる素材(ヒューレー)でもない。むしろ自然は、それ自身が自律的で自然成長的(オートポイエティック)な力に満ちた利機動的な存在である。そこで人間は、こうしたピュシスとの複雑な応答や交渉や相互作用を通じて、はじめて「もの」の制作をはじめとする成果を享受することが可能となる。

 ただし、ここで注意すべきは、実際に人類学的に世界各地における多様な(わざ)の実践を子細に検討していくと、いま述べたような設計主義/非設計主義、近代的技術/伝統的技術、テクノロジー/テクネーといった二分法は、あくまで雑駁な理念型であることだ。実際、本書の複数の論考が示唆するように、世界各地における技術的実践の実例を子細に検討すると、そこでは上記の単純な二分法には到底収まりきらないような多様な幅、ないし境界的な事例の存在などを含んでいる。

 この点に関して、また別の文脈から共振してくる論点として、いわゆる「世界の再魔術化(re-enchantment)をめぐる論議を挙げることができる。これまで通念的には、近代化の過程とは前近代的な呪術的な世界観からの解放−−−−M,ウェーバーの言う「世界の脱魔術化」−−−−であった。その過程においては、前近代的な迷信に満ちた「呪術の圏」の迷妄から人々は解き放たれ、近代的世界観に裏打ちされた合理的科学技術の力によって人間は荒々しい自然の脅威にも打ち克ち、外部の世界を統御し、支配するようになっていくという理解が暗黙の前提とされてきた。

 しかしながら、前近代的な呪術からの解放と、その裏返しとしての理性的な科学技術勝利という「大きな物語」は、近年の地球環境問題の深化をはじめとする近代技術文明の危機を前にして、少なからず疑問符が突き付けられていることは、改めて詳述するまでもないだろう。

(・・・)

 最新鋭の先端的美術という表層的なイメージとは裏腹に、原子力発電技術の廃棄物をめぐる問題は、あたかも「魔法使いの弟子」の寓話のように、使い方を誤った魔法(呪術)を前に右往左往する人間の姿を喚起させるかのようである。

 このように先端的な「現代的技術」が、ある意味では一種の魔術(呪術)的様相を帯び始めるという逆説的状況は、何も原子力発電に限った話ではない。実際、近年のAI開発の現場においても「黒魔術」というスラングが囁かれるようになっている。これはAIのプログラマーの開発者にとってさえ、「なぜこういうプログラムを組めば性能が向上するのか」が不明、ないし明瞭に説明できないような事態、すなわち「解釈性と性能のトレードオフ」を表現する言葉として知られている。

(・・・)

 こうした事態は、技術の高度化によって、もはや(制作者を含め)人間にとって技術や技術を駆使した人工物が、事実上ブラックボックス化している状況と言ってもよいだろう。こうした状況は「十分に発達した科学は魔術と区別ができない」というSF作家A.C.クラークの言葉を想起させる。いわゆる伝統的社会において人々が呪術を信じ、実践していたような状況と、高度に技術が発達したとされる現代社会の状況は、実はその機能面においては、さほど大きな差ががなくなりつつある、と言えるかもしれない。(・・・)現代社会における科学技術は、その大半の人間にとっては、もはや一種の呪術、いわば「機能的呪術(functinal magic)」として流通していると言ってもあながち誇張ではないだろう。いずれにしても、「呪術的/技術的」という区分も、「アート/テクノロジー」、「伝統的技術/近代的技術」などの二分法と同様に。「わざ」概念をより広く、柔軟な含意を含めて考察していく上では相対化されるべき枠組みのひとつであると言えるだろう。」

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