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リチャード・J. バーンスタイン『根源悪の系譜』・笠井叡「悪魔論」・シュタイナー「マニ教」

☆mediopos-2521  2021.10.11

悪とは何か

その問いは
善とは何か
正しさとは何か
という問いがあってはじめて
その射程が見えてくる

おそらく善であること
そして正しさを考えるときには
「中」ということが重要となる
「中道」「中庸」の「中」である

それは極を去り
その平衡を求めるということであり
そのことによって
創造的な方向性へと向かう
ということでもあるだろう

そしてさらにいえばそれらの営為は
決して静的固定的にとらえられてはならず
動的なものとしてとらえる必要がある

そのような創造的な働きを持った
動的な平衡を善であり正しさであるととらえるとき
悪とはどういう存在であり
また働きであるかが見えてくるところがある

シュタイナーは
善悪二元の教えを説いたマニ教に関する講義のなかで
「悪とは、時期はずれの善にほかならない」と述べている

ほんらい善であるものが
いわばTPOを錯誤したかたちで
あらわれたのが悪だというのである

さらにいえばその悪の働きがあってはじめて
人間は自由を獲得する可能性を得
宇宙に新たなものをつけくわえることができる

しかしそこでどうしてもでてくる問いは
それらの「中」を可能なものとしているTPOは
どのような規準において生まれているかである
それは性善説か性悪説か
といった宇宙の根源をどうとらえるかに
深く関わってこざるをえない
最初の座標軸が変われば
そこで展開されるものそもののが
まったく異なった様相をとることになるからだ

ローティなどと近しいプラグマティズムの視点をもった
リチャード・J. バーンスタインの
『根源悪の系譜』において問い返されている
「根源悪」についての視点から導き出された
10のテーゼを引用しておいたが

その10番目のテーゼにある
「善悪を選択するための究極的根拠は計り知れない」
というのも最初の「根拠」の問題である

そしてその意味で最初のテーゼ
「悪への問い質しは進行中の、終わりのないプロセスである」
が示唆されているといえる

そうした視点はまさに「プラグマティズム」的なのだが
そこで少なくともなくしてはならない視点は六番目のテーゼ
「悪の力、および悪行を犯す
われわれの性癖を過小評価してはならない」ということだろう

それは「悪人正機」ということでもある
みずからを「善」「正」として疑いをもたないときこそ
「悪」は「動的平衡」を破壊するべく誘惑するのだから

■リチャード・J. バーンスタイン
 (阿部ふく子・後藤正英・齋藤直樹・菅原潤・田口茂 訳)
 『根源悪の系譜/カントからアーレントまで』〈新装版〉
 (叢書・ウニベルシタス 法政大学出版局 2021/7)
■笠井叡「悪魔論/来たるべき愛・自由・宇宙的自立のために」
 (『月刊アーガマ Np,113 1990.8』阿含宗総本山出版局 平成二年七月 所収)
■ルドルフ・シュタイナー(西川隆範訳)「マニ教」
 (『月刊アーガマ Np,113 1990.8』阿含宗総本山出版局 平成二年七月 所収) 

(リチャード・J. バーンスタイン『根源悪の系譜』より)

「哲学者および政治理論家たちは悪よりはむしろ、不正義、人権侵害、不道徳で非倫理的なものについてずっと慰めになる話し方をする。神学者および宗教哲学者たちが「悪の問題」を語る場合、その意味するところは概して何かまったく特殊な問題−−−−つまり、全知全能で慈悲深い神の信仰と、悪の現象をいかに調停するかという問題になってしまう。まさしく彼らの言説が今まで特殊化され専門化されてきたために、通常の人々の生きた経験から縁遠くなっているのだ。こうした言説の多くは、悪の通常の事例をくどくどと述べる。ナチスの戦慄、故意のサディスティックな行為、不要な殺人、屈辱的な拷問、無辜の人々の極度の苦痛、そして伝統的なキリスト教の罪の目録である。しばしばこれらの事例は、まるで何の問題もないかのように取り扱われる。いわゆる悪の問題の主要な論点は、実際には悪の特徴づけや悪の多様性ではない。むしろそれは(どのように記述されるにせよ)どのようにして悪を宗教的信仰および信念と調停するかの問題である。悪についての言説は、現代の道徳的・倫理的言説からこぼれ落ちているかのようだ。」
「哲学者たちが悪について語ることに気乗りがしないことには、もう一つの理由がある。われわれの大衆文化の底辺には、「世俗的マニ教」の流れがある。この言葉を通じて私が言いたいのは、世界をよき力と悪しき力に二分することの安易さである。悪とは(・・・)ひとが憎んで見下すあらゆるもの、ひとが堕落し卑劣だと見なすもの、暴力的に根絶させられるべきものである。こうした世俗的マニ教は致命的にも、狂信的なイデオロギーの形をとりかねない。今日、いまだに悪の言語を使用し、自分たちが見下して破壊したいと欲するものを同定するのは、もっともイデオロギー的で狂信的な集団である。
 にもかかわらず、悪に関する問題は今なお回帰してわれわれに付きまとっている。新しい悪がつねに勃発することを妨げることも予期することもできない不安が増大しつつある。われわれに必要なのは、これらの悪の−−−−何か悪しきものにレッテル張りをするときに意味するところの−−−−何かの理解。何らかの概念的把握を獲得することである。今まで経験されたことをつかみ出すための深く豊かで繊細な言説が欠けている。これが私の目下の研究の背景をなす(・・・)問題設定である。
 本書を執筆する直接の動機は私の研究所『ハンナ・アーレントとユダヤ人問題』から生じた。(・・・)アーレントの研究のなかで私は悪、根源悪および悪の陳腐さについての彼女の探求に二章充てた。(・・・)けれども(・・・)アーレントは(本人も自覚しているように)悪について自らが提起しなかった多くの問題を呼び起こした。とりわけ『全体主義の起源』のなかでカントに付した彼女のコメントによって、私は自分自身を問い質すようになった。アーレントは根源悪についての彼女の概念を提示するにあたり、「根源悪」という表現をつくった哲学者であるカントが「われわれを途方もない現実に直面させ、われわれの知りうる一切の尺度を破砕する」現象の存在を疑っていたにちがいないと述べた。(・・・)私の関心と好奇心を喚起したのは、実はこのカントへの言及なのだ。」

「一.悪への問い質しは進行中の、終わりのないプロセスである。」
「二.悪には多くのタイプがあり、それらに共通する本質はない。」
「三.悪は全面的に理解されることに抵抗する過剰である。」
「四.悪はそれを正当化するあらゆる試みに抵抗する。悪は弁神論に抵抗する。」
「五.悪を物象化する誘惑は避けられなければならない。」
「六.悪の力、および悪行を犯すわれわれの性癖を過小評価してはならない。
「七.根源悪は悪の陳腐さと両立可能である。」
「八.個人は悪行を犯す責任から逃れることができない。」
「九.人格的責任を肯定するだけでは不十分である。アウシュビッツ以降のわれわれはまさしく責任の意味を再考しなければならない。」
「一〇.善悪を選択するための究極的根拠は計り知れない。」

(笠井叡「悪魔論」より)

「この宇宙は性善か、それとも性悪かという議論があります(・・・)。
 この宇宙が性善か性悪かを決定するのは、宇宙そのものが悪の本性を持っているか、あるいは善の本性を持っているかで決定される、という考え方がひとつあります。もうひとつは、それは宇宙に依存するのではなくて、人間が宇宙をどういうふうにとらえたかが問題なのだという考え方です。
 後者の考え方では、宇宙は性善だと人間の側からとらえれば、宇宙は善なる存在にもなりえるし、宇宙は悪だととらえるならば悪の力が出てくる。これは、人間の側でどういう願いを持って宇宙を観るかという問題です。同様に、人間に自由があるかないかは人間が決定する問題であって、はじめから宇宙の本性として自由があるということではないのではないか、という考え方と同じです。
 この二つの考え方は、人間は必然の歴史の流れのなかにあって、完全に自由でありうるのか、ありえないのかという問題と非常に似ているように思うのです。ダーウィンが考えたように、人間は自然の産物であって、自己原因としての自然の必然的な結果であり、必然の流れのなかで宇宙に依存するものだとすると、人間にはある意味で自由がないともいえるわけです。
 しかし、一方それにもかかわらず、人間の内部から自由な意思を生み出すことができるという考え方がありうるわけです。(・・・)ここでは(・・・)宇宙とか大自然という自己原因から人間が自由になるということが、自分自身の存在の証しであり、願いだという観点を問題にしたいのです。
 そこで、自己原因として宇宙や神や自然を持っている人間が、そういう自己原因になっているものから自分を自由にするのか。あるいは与えられた自己原因のなかに自分を解放するのかという問題が出て来ます。これは、最終的には個人の意思で決定されるものだと思いますが、悪の問題を考える場合には、どうしても人間の宇宙的な自立という問題を切り離すことができないと思うのです。
 少し結論じみた言い方をすれば、私は、人間は悪の力をもってしか、宇宙なり自然なり神なりの自己原因から、自分を独立させることができないと思うのです。」

「マニ教あるいはグノーシス主義の人たちはどこまでも、悪とは、歴史の発展段階のある一時期にのみ現れる現象だととらえたのです。つまり、普遍存在なのではなくて、人間をある進化の段階に高めるために悪が必要であるということ、いいかえれば、植物を育てていくためには肥やしをやらなければならないように、神は、人間がある宇宙史の段階で、あるところまで発展していくために悪を必要とした、あるいは悪を人間に与えたということなのです。
 なぜかというと、悪という対立要素がないと善を実現することができないからです。(・・・)
 マニ教の悪のとらえ方は、積極的に悪を評価するのです。マニ教では、悪は肥やしとしてというよりは、宇宙や人間や歴史の進化のために、善神が悪に自分の存在を犠牲にすると考えます。(・・・)悪霊というのは人間に自己をささげた善神であると、積極的に悪を評価するわけです。」

「したがって、悪霊存在の自己犠牲をふたたびもとの善なる存在に変えてやることは、人間の力によってしかできないのです。とすれば、神は一種の賭をしたことになる。つまり人間が、自分をふたたび悪から解き放してくれるかどうかの保証はないものの、人間の進化のために、善神は自分を悪霊に変えたということなのです。」

「では、人間は何のために自立するのかというと、人間が最高だからではなくて、人間が自立することによってのみ、宇宙の始まりに存在しなかったものが宇宙の終わりに、また人間の一生のはじまりのときに存在しなかったものが死の直前に、生まれてくる−−−−そのためだと思います。」

(シュタイナー「マニ教」より)

「悪とはなにか。悪とは、時期はずれの善にほかならない。つぎのような例をあげてみよう。完璧な技術をもったピアニストと技師がいたとしよう。まず技師がピアノを製造し、それをピアニストに売る。ピアニストが適当な方法でそのピアノを使えば、両者とも善である。しかし、ピアニストのかわりに技師がコンサート会場に行ってハンマーを使ったら、その技師は場違いである。善が悪になる。悪とは、場違いな善なのである。
 ある時期に善であったものがずっと保持されて、硬直化し、進化したものを妨害するなら、それはうたがいなく、悪である。善に反抗しているからである。月紀の指導的な力が終了すべきなのに、引きつづき進化のなかに混合したとしてみよう。そうすると、地上の進化に悪を出現させることになる。悪は以前には完全な、神的なものにほかならなかった。それが、時機はずれにあらわれたために、悪になっているのである。
 このような意味で、マニ教は善と悪は根本的にその方法、起源、目的において同様のものであると見ていた、と私たちは理解しなければならない。このように理解すると、マニが何を説こうとしたのかが理解できる。」

◎リチャード・J. バーンスタイン『根源悪の系譜』目次


緒論

第一部 悪、意志、自由

第一章 根源悪──自分自身と戦うカント
悪しき格率
根源悪
悪魔的な悪
無制約的な道徳的責任

第二章 ヘーゲル──〈精神〉の治癒?
有限者と無限者
悪と有限性
アダムの堕罪
悪の必然性と正当化?
ヘーゲル対ヘーゲル

第三章 シェリング──悪の形而上学
実在的な悪
根拠と実存
我意と闇の原理
悪の道徳心理学

間奏曲

第二部 悪の道徳心理学

第四章 ニーチェ──善悪の彼岸
「よいとわるい」対「善と悪」
弁証法的アイロニスト
悪とルサンチマン
善悪の彼岸
悪についてニーチェから学ぶもの

第五章 フロイト──根絶不可能な悪と両価性
一群の兄弟たちが経験する両価性
欲動論
ニーチェとフロイト
悪に対する責任

第三部 アウシュヴィッツ以後
プロローグ

第六章 レヴィナス──悪と弁神論の誘惑
弁神論の終焉
悪の現象学
無限の責任

第七章 ヨーナス──新しい責任の倫理
ニヒリズムに対する応答
悪とわれわれの黙示録的状況
ヨーナスの神話を「脱神話化する」
ヨーナスとレヴィナス

第八章 アーレント──根源悪と悪の陳腐さ
余計さ、自発性、複数性
悪の意図と動機?
アイヒマン──人間的な、あまりに人間的な

結論

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