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菊地信義『装幀余話』

☆mediopos-3174  2023.7.27

装幀家・菊地信義は二〇二二年三月
七八歳で亡くなっている

一万五千点余の本の装幀を手掛けたが
その装幀の多くは
ひとめで菊地信義によるものだとわかる

神奈川県近代文学館において
二〇一四年七月に
「装幀=菊地信義とある『著者50人の本』展」
と題して行われた装幀展が開催された際の
「装幀の余白から」と題された講演が
『装幀余話』の最初に収録されているが

そこで語られているのは
装幀家ならではの視点からの
「本を読む」という行為についてである

講演の最初に「結論めいたこと」ということで
「本というのは人の心をつくる道具だ」
ということが語られているが

その「心」は
本から得た知識でつくられるものではなく
「むしろ、言葉を読んでも物事や他者を
知ることはできない」
「本を読めば読むほどある種空白になる」
そのことをふまえて本を読むことで
「静まった心」がもたらされるという

主に文学の言葉とそれが収められた本について
示唆されているのだが
その「もっとも根本的な仕事は、
「言葉にならない言葉がある」
ということを伝えることで、そのためにこそ言葉がある」

言葉には表と裏があって
表とはその通り言葉の表面的な意味だが
裏とは「「なぜこの言葉がこのように使われているのか」
といった形で問い直すことではじめてわかる意味」であり

その表と裏がひとつになってはじめて
「言葉」が成立するのだという

本を読むといえば
ふつうはその本の内容について
云々されることが多いが

装幀家である菊地信義の視点は
本や言葉をその物質性
つまり視覚・触覚・嗅覚・聴覚・味覚といった
五感すべてにおいてとらえることでひらかれてくる
いわば生きていることそのものとしての
「心」をつくるというものだ

そうした「人の心をつくる道具」としての視点からすれば
タブレットのような端末を使った
電子書籍とその言葉というのは
「伝達性」の側面だけを利用した
「決められた意味を担った消費財」である

つまり言葉の「裏」は必要とされない
まさにチャットGPTの言葉には
「裏」などは存在しないように

そうした言葉しか使わないとしたら
人にも「裏」がなくなってしまうことにもなる

「裏」とは「言葉にならない言葉」であり
それこそが「言葉」が「言葉」である存在理由なのだが

「裏」がない言葉だけの人間
ディベートや論破やエヴィデンスやだけの
言葉の表だけに依る人間は
ある意味ですでに
生きた人間ではなくなっているのかもしれない

■菊地信義『装幀余話』(作品社 2023/3)

(「序 装幀の余白から」(於:神奈川県近代文学館、二〇一四年七月五日」より)

「最初に、結論めいたことを申し上げておきます。「本というのは人の心をつくる道具だ」ということです。といっても、本から読み取った知識で心ができるというわけではありません。むしろ、言葉を読んでも物事や他者を知ることはできない、それを知ること、了解することが大事であって、それを了解した上で本を読む。そうすると、そこに「静まった心」がもたらされる。その「静まった心」こそが一人ひとりの人生、現実をリアルに生きる心なんだと思います。つまる、本を読むということは、知識を身につけたり、心を涵養したりするのではなく、逆に、本を読めば読むほどある種空白になるというか。そのあたりのことを手を変え品を変えお話ししていくつもりです。

 本を読むという行為において、なぜそういうふうに考えるに至ったのかというと、詩であれ小説であれ、芸術性の高い文学作品の言葉というのはモノ、物体だと思っているからです。言葉がモノだとすれば、モノの表と裏があるように、言葉にも表と裏がある。では、言葉の表とは何かといえば、額面どおりの意味と考えてください。それに対して言葉の裏というのは、「なぜこの言葉がこのように使われているのか」といった形で問い直すことではじめてわかる意味です。要するに、これが「読む」という行為です。そして、通り一遍の通常の意味の表と裏に隠されたものがひとつになってはじめて「言葉」は成立する、一人ひとりの言葉に意味が生まれる。そういうものだと思います。」

「余談ですが、最近知って驚いたことがあります。さきほど、言葉の表と裏の話をしましたが、本の一ページ目って、紙の表なのか裏なのかと考えたことがありますか? ふつうに考えれば、一枚の紙を折り畳んでいくわけですかた、一ページ目が表で、二ページ目が裏ということになる。ところが、一ページ目は裏なんだそうです。どういうことかというと、現在の紙の製造技術においても、製紙のプロセスからして紙というのはどうしても裏表が出てしまう。滑らかにコーティングしたアート紙みたいなものでもやはり裏表が出る。裏のない紙というのはありません。紙にはかならず裏表がある。

 たとえば、印刷をする場合には当然一折目、一台目から刷っていくわけですが、本の一ページ目にはだいたい書名や目次扉があって、二ページ、三ページ目に目次がある。文字が少ない部分ですね。そして、紙の裏表でいえば、裏の方がザラッとしていて刷りにくい。ですから、最初は裏面のほうでインクの量とか印圧とかをチェックしておく。裏にきちんと刷れれば表も大丈夫だというので次に表面に印刷をする。もっと専門的なことをいえば、一折目というのは目次などで直しが出るケースが多いから、二折目から先に刷ることもあり、本のページ目が表か裏かというのは、どちらともいえないというのが正解なのですが、ただ、紙には裏表があることを知って、「このページは表かな裏かな」と考えながら本を読むことはとても重要なんです。

 ここで、本の原形ということを考えてみたいと思います。一枚の紙があって、表が表紙で裏に文字が書かれているもの、これが本の原形だと思います。なぜそんなことを考えたかというと、先ほどいったように、紙には裏表がある。では、「裏のない紙」はほんとうにないのか。実は、「裏のない紙」という認識を表出するものこそ「詩」なのではないか、ぼくはそう思っています。もっといえば、「紙には裏と表がある」と認識するのが人文知、哲学で、「裏のない紙」を認識するのが詩であり、この二つを合わせたところに小説が生まれる。つまり、人文的な知が認識する裏表のある一枚の紙には詩の源泉が潜んでいて、それを引き出すことによって小説という、物語の形ができ上がる。」

「本というのものは、視覚は無論のこと、触覚、嗅覚、聴覚といった感覚から成り立っているわけですね。五感でいえば、あと残っているのは味覚ですが、本を舐めるわけではないかた本に味なんかないだろうと思うでしょうが、実は本にも味がある。最初に、「本というのは人の心をつくる道具だ」といいましたが、自分の心をつくるような本であれば、読んだらすぐに捨ててしまうのではなく、五年、十年、二十年と自分の手元に置いておくことになる。時間の経過のなかで、蛍光灯の光で紙が焼けたり、煙草を吸っている人だったら煙草の煙が付くだろうし、自分が歳をとって手足に軋みが出てくるのと同じように、本にもやはり軋みが出て、朽ちていく。その本に夢中になっていた理由も思い出せないが、目が行くごとに大切なものがあることを訴えてくるのは、まぎれもなく読むという行為の後味なんです。」

「ここまで、主に本や言葉の物質性についてお話してきましたが、その物質性をないがしろにし、危うくする元凶が近年にわかに擡頭してきた、いわゆる電子メディアだと思っています。電子メディアは、本の流通、本の製作、そして読書空間という三つのステージにおいて、紙の本を駆逐していっています。メディアの電子化は、この三つのステージのいずれにおいても、言葉の数ある側面のうち、伝達性という側面のみを利用している。つまり、言葉というのは決められた意味を担った消費財にすぎず、人の心をつくる道具である言葉の裏みたいなものはすべて不要だとする、そういう動きです。そこでは、読者が本の消費者に貶められている。そんなところでは、言葉の裏や言葉の物質性に気づくことができないし、まして批評性や「私」というものが育つわけがない。ぼくはそう思います。

 このメディアの電子化というのは、日本の戦後の消費時代の産物です。最初は、テレビという巨大な装置が紙の本を追いやり、その最終兵器としてタブレット端末が現れる。そこで何が起こっているのか? われわれの感覚、感性、感情が奪われ続けているわけです。その証拠に、近ごろ流行りの言葉に「元気や勇気をもたった」というのがあります。あれほど嫌いな言葉はないですね。元気なんてもらうモノですか? 勇気なんてもらうものですか? これはつまり、自分の感覚、感性、意識、身体性をすべて奪われてしまって、心は人の手に渡ってしまったことを臆面もなくいっていることと同義なんです。そうとしか思えません。

 それに、ぼくはあの端末というのが、どうにも嫌でしょうがない。紙の裏表を感知する貴重な指がツルツルした面で心許なげに踊っている。ためしに「端末」を広辞苑で引いてみると、「物のはし。すえ」と書いてある。まさに「物の端、末」の上で、紙の本をめくる指が踊らされている。それが現状です。そして、広辞苑では「端末」の次に出てくる言葉が、なんと「断末魔」なんです。なんだか、できすぎですね。ついでだからその意味も調べてみると、「梵語 marman 支節・死穴と訳す。体の中にある特殊の急所で、他のものが触れれば激痛を起こして必ず死ぬという」とある。

 そんなわけで、死に直結するような端末の上での指の踊りをやめて、もう一度紙の本をめくってみませんか、という結論になるわけですが(・・・)」

「近代がつくりあげた教育装置まで含めて本であって、逆にいえば、大学は巨大な本だともいえる。そうやって長い年月をかけて築き上げてきた知の体系をわずか七十年ほどの消費社会が駆逐してしまったわけです。ぼくも含め寝て、戦後七十年を生きてきたわれわれは、「消費者は王様だ」などと踊らされて、おだてられて、おまけに「あなたらしい個性をつくれ」とさんざん煽られた。ところがどっこい、個性なんてものは大量消費のなかに溶かし込まれてしまい、個性なき主体、感情なき主体が構成されてしまった。挙げ句、高度資本主義時代に移行した現在、これ以上大衆を踊らせてもモノはつくれないし、売れないというので、「もう消費者はいらない」という方向に転換が図られている。要するに、「消費時代」から国家主導の資本主義体制にシフトを変えて、矢継ぎ早にいろいろな制度が具体化されている。それが現実です。

 ぼくの大好きな詩人の石原吉郎の言葉に、「民主主義の根本を支えるのは人間不信だ」というのがあります。この言葉に触発されたわけではないのですが。この世界には、自分の主義主張のための爆弾を抱えて死にたい人と、冬山で本を読みながら凍死するのが夢だという人、この二通りの人間しかいないのではないか、と。そして、文学の役割というのは、爆死したい人でも凍死したい人でも、その双方に「まあ、そっちもいいだろうけど、こっちもいいぜ」「そっちもあるけど、こっちもあるよ」といい続けることなのではないか。爆死でも凍死でもない、そのどちらかに固着せずに、両方の側面を見ていくことを伝え続けるのが文学の仕事だと思うんですね。そして、その文学を支える言葉のもっとも根本的な仕事は、「言葉にならない言葉がある」ということを伝えることで、そのためにこそ言葉がある。

 これは今日ずうっとお話ししてきた「言葉の裏表」という問題にもなるし、言葉というものが「静まった心」をもたらしてくれるということにも結びついていくと思います。」

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