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エンツォ・トラヴェルソ『一人称の過去 歴史記述における〈私〉』

☆mediopos2877  2022.10.3

歴史を語る人称が変化しようとしている

「歴史が作者の主観性のプリズムを通して、
次第に多くは一人称で書かれるようになっている」

歴史家は過去を三人称的に再構成するというよりも
解釈するようになってきているが
その傾向は二一世紀の転換期に強まり
歴史家の自伝も増え
「主観主義的な歴史記述の新形式に移った」のだという

その傾向をわかりやすくいえば
歴史と文学が「相互干渉/侵犯」している
ということでもある

こうした現象は一九八〇年に刊行された
「ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』で予示され
「二〇〇〇年代の初めにフランスを中心に
イタリア、スペインにも生じた」

その原因のひとつに
ネオリベラリズムの出現があり
それにともなって個人主義的傾向が強まり
それは「自撮り(selfie)」に象徴されている

つまり「書くということ、とりわけ
自己について書くということの民主化」であり
いわば知的エリートにより独占されていた書くことが
「下からの歴史」の傾向を強めてきているということだ

もともとラテン語系の言語の
フランス語histoire・イタリア語storiaには
「歴史」と「物語」の両方の意味があるが
かつて歴史記述が三人称的な記述であり
文学表現の典型が一人称的なものだったのが

「書くこと」の民主化・個人主義化によって
「相互干渉/侵犯」が起こり
その結果として歴史が一人称的な記述へと
シフトしてきているという現象が起こっているのだ

ある意味でそれまで背後に隠れていた「私」が
だれでも書き・発信できる時代を受けて
(SNS等での過剰なまでの自己表現欲求もそうだが)
歴史の語り手として顔を見せはじめている
ということでもあるのだろう

その現象をどう問い理解するか
そして今後それがどうなっていくかを
注視しておく必要がありそうだ

■エンツォ・トラヴェルソ(宇京賴三訳)
 『一人称の過去 歴史記述における〈私〉』
 (ポイエーシス叢書 未来社 2022/7)

「ことは単純である。歴史が作者の主観性のプリズムを通して、次第に多くは一人称で書かれるようになっている。文学では、この現象が古くても————『神曲』におけるダンテの語りを考えているだけだが————、歴史においては別で、まったくこれまでなかったことである。この自我の侵略的な飛躍には当惑させられる。これは歴史家としての私の慣行を問い質し、またわれわれが生きている世界に関する別のより深刻な問題も提起する。「自撮り(selfie)」の時代は歴史記述の慣行にまで影響するのか? それがもたらす方法論的変革を課投げる前、本のカバーに作者の顔写真を載せるという傾向がだんだんと増しているように、些末な細部にまで入り込む主観性の新しい一を確認しておこう。こういう作者の決心は必ずしもその「エゴティズム」————「私の好みのテーマ、私自身」————からではなく。むしろ主観性がわれわれの文化、転じて、物(もの)化された公的領域に占める新しい位置から生じている。」

「二一世紀の転換期に、歴史家の自伝が増えた。この新しい文学的ジャンルの正当なる分析家であるジェレミー・D・ポプキンとハウメ・アウレルは、この近年三〇年間に現れたその数百例を調査した。そのような広がりのある現象は研究に値すると主張しながらも、彼らは必ずその若干逆説的な性格も指摘した。概して、研究者の生活は講義やセミナーを行ない、コロックに参加し、資料館や図書かにこもることだが、それは当然ながらジェームズ・ボンド流の冒険のように胸躍るものではない。それでも、歴史家がその生活を語る楽しみは広まった。それまでこの自己反省的な享楽はその名声を意識し、キャリアの特異な性格を誇るごとく少数の学者のものだった。彼らはエリート層に属していた。彼らは普通の歴史家集団から出て、å回想録作者になったのである。」

「こうした歴史家の自伝は数多く増えているのはおそらく、部分的にはより幅広い傾向の反映である。つまり、書くということ、とりわけ自己について書くということの民主化である。一九世紀は文盲撲滅闘争、二〇世紀は読書普及の時代である。われわれはそれまで排除されていた人びとによる書くことへの適応化の時代に入ったのだ。かくして、知的エリートによる書くことの独占が終わり、普通の男女がその人生を語るようになった。「下からの歴史」の誕生は「下から」の自伝と不可分であるが、これは、広がりはあってもマージナルで、メディアや出版界のルートからは外れて、いわば陰で生まれて広まったものである。そしてこのテクスト世界の驚くべき豊かさを最初に理解したのが、まさしく歴史家なのである。イタリアでは、書くことに近づけなかった人びとの証言を書きとめる歴史家が数多くいた。」

「この近年、もうひとつの敷居が越えられた。すなわち、われわれは歴史家の自伝から主観主義的な歴史記述の新形式に移ったのである。今日、増え続ける、自伝ではない多くの著作は重要な書き手の主人公化(homodiégétique)という次元を備えており、まるで歴史は、それをつくる者のみならず、またとくにそれを書く者の内在性をさらさずには書かれないかのようである。語の慣例的な意味における歴史でも自伝でもない、このハイブリッドな新ジャンルはかなりの成功を収めた。これは伝統を侵犯し。文学的規範を越えて、歴史的分野一般に認められた、いくつかの基本的な前提を見直した。(・・・)私が検討に専念するのは。歴史記述と歴史家の自意識における主観性に与えられたこの新しい位置である。ここで明確にしておきたいのは、私の意図は反自伝的な文学の古い構築物に新しい石を加えることではないことだ。反自伝的な文学の起源は少なくともパスカルとその有名な一文「自我は嫌悪すべきものである」に溯り、これはたんなる警句以上に実際の不快感を示しているのである。『一九〇〇年頃のベルリンの幼年時代』の構成に使われた自伝的な断片において、ヴァルター・ベンヤミンは批評家としてつねに、単純だが入念に配慮した「唯一の小さな規則」を固守したと認めている。つまり、「手紙を除いて〝私〟という語はけっして使わないこと」である。ベルリンについて一人称でコラムを書くよう提案されると、彼はごく自然なためらいを克服しなければならなかった。「突然、それまで何年も後景にあることに慣れていたこの私という主体が、そう簡単にはフットライトのそばに呼ばれるままにはならないことがわかった」。」

「実を言うと、小説家ナルシスと歴史家ナルシスは並列するのではなく。結合し、さらにはハイブリッドな表象として融合する傾向にある。なぜなら、本書の結論で見ることになるが、主観主義的な歴史家はその文学的野心を隠さないのに対して、多くの小説家は歴史家のように書きはじめ、セカイヲ探検し、「文学的なノンフィクション」の作品を生んでいるのだから。文学的ナルシシズムに倣って、歴史家暦的ナルシシズムは他者からの批評を要請し、その成果が無視されるものではなく、ときには非人称の歴史のそれよりも注目すべきものでさえあると考えているのである。」

「読者には、少なくとも私はそう期待したいのだが、本書がこの新しい歴史記述に反対するのではなく、その誕生の理由を問い考えるものであることを理解してもらいたい。その正当性とか質を否定することが問題なのではない。この記述の結果はときには注目すべきものであり、ときには、とくにその解釈学によって不可避的にさらされるリスクのために、議論の余地があるものとなる。こうした危険の主たるものは、その格子を外すどころかわれわれを窒息させる現在主義の鋼鉄の檻の中に閉じこもることである。われわれの多様な「私」————立場の、調査の、情動の私————の展開展望に開かれた地平の豊かさを探求したあと、歴史はとりわけ「われわれ」によって形つくられ、出来上がったものであることを忘れてはならない。」

(「訳者あとがき」より)

「本書『一人称の過去 歴史記述における〈私〉』だが、これはこれまでエンツォ・トラヴェルソの著作からすると、かなり異色である。」

「(本書は)従来の思想史的な観点から現代史を論じたものから、視座を変えて、歴史記述をめぐって二つのディシプリン、歴史と文学の関係、その相互干渉/侵犯の問題を扱っている。(・・・)つまり、三人称で書くはずの歴史家が一人称で語り、一人称で書くはずの小説家が三人称で物るという相互干渉・侵犯がおこっているというのである。ただ小説家が三人称で語る叙述形式はなかったわけではなく、古今東西、昔から歴史に題材をとった小説や物語は数多くある。だが歴史家が一人称で語ることはなかったであろう。こうした傾向がある頃から文化的・社会的現象となり、著者トラヴェルソはこれに注目したのである。もちろん力点を置いているのは、歴史家における一人称の記述だが、この現象をトラヴェルソらしい透徹した目で、豊富な情報、学殖を駆使して、鋭く分析している。
 彼によれば、この現象は、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』(一九八〇年)によって予示され、二〇〇〇年代の初めにフランスを中心にイタリア、スペインにも生じたとしているが、本書では、それがなぜなのかを分析・論述している。そこでとりわけ興味深いのは、その拠ってきたる原因のひとつにネオリベラリズム(新自由主義)の出現があり、その系として生まれた個人主義が現代のハビトゥスとなり、これがデジタル社会の「セルフィ」に象徴され、歴史の主観的記述、「一人称の過去」の記述に対応するものだという。きわめてアクチュアルな認識を示し、批判的に検討・吟味しているのである。」

◎目次

序 章 第1章 三人称で書くこと
第2章 客観性の罠
第3章 歴史的エゴ
第4章 語り手〈Je=私〉の小目録
第5章 方法論
第6章 モデル:映画と文学のあいだの歴史
第7章 歴史とフィクション
第8章 現在主義

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