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熊田千佳慕『新装版 私は虫である』

☆mediopos-3088  2023.5.2

童話画家・細密画家の熊田千佳慕の
画法の基礎となっているのは
「見て、見つめて、見きわめる」というプロセスである

消しゴムを持たず下書きもできない状態で
「瞼に焼き付くまで観察」してから線を引く
「本当の姿を自分の物にしたと
得心して初めて、紙に向か」い
「一本また一本と線を描く」

「見る」ことと「描く」ことが
一体となってはじめて可能になる画法である

本書のタイトルにもなっているように
「私は虫であり、虫は私である」といえるまで
「見きわめる」ということだろう

そのために「ひたすらに、ひたすらに描」き
「こっちはほんとうに全部なくして無心で入ってしま」って
「そのままのものが出て」くるようにする

そんな熊田千佳慕が
ようやく認められるようになったのは
一九八一年・七十歳のときである

「ファーブル昆虫記」の虫たちを描いた作品が
イタリアのボローニャ国際絵本原画展に入選し
一躍脚光を浴びることになったのである

熊田千佳慕は戦後
グラフィックデザイナーとしての定職を捨て
あえて少年時代から親しんできた絵本の世界へ

そしてみずからを「ビンボーズ」と呼ぶように
困窮した生活を続けながら絵本作家の仕事を続け
七十歳になってようやく認められるまでは
「泥水の中にいるような人生(笑)」
「僕の人生は、七十歳がルネッサンスで、花開いた。」
のだという

そして二〇〇九年八月・九十八歳で死去するまで
花や虫たちのを愛し細密画を描き続け
熊田千佳慕は「プチ・ファーブル」と呼ばれた

本書にはその遺された未発表「語録ノート」を中心に
そのメッセージが収録されている
(本書は新装版で最初に刊行されたのは二〇一〇年)

七十歳になってはじめて認められるようになったものの
それでなにがしかの者になるという「結果」のために
描きつづけたというのではないところが重要なのだろう
こうした言葉をのこしている

「人間は歳とったり、成功したりすると、
「何とかは何とかでなくちゃいけない」と覚えたい。
だけど、僕は今も何もわからないまま、今も結論が出ていない。」

「結論」つまり「答え」のために描いているのではないのだ

熊田千佳慕は
「虫や花の美しさを愛することができる心の目
虫や花の言葉のわかる心の耳
虫や花と自然に話しかけられる心の口」をもって
「《不思議だなあ》と感動」して描き続けた

それは科学者が「すぐに《なぜ》《どうして》と
問いかけ」るありようとは異なっている
アリストテレスは哲学は「驚き」からはじまると示唆しているが
そうした哲学者よりも詩人に近い

ノヴァーリスは科学(学問)は哲学になった後
ポエジー(詩)になるといったが
熊田千佳慕の絵への姿勢は
そうしたポエジーに近いところにいるのだろう

こんなエピソードも書かれている

著者の長兄の精華が
「七十、八十になって初めて、一行の詩が書ける」
というリルケの言葉で
著者を励ましていたというのである

そこにいたるまでには
「見て、見つめて、見きわめる」ことを続け
「ひたすらに描」き続ける時間がかかるということだ

ぼくにはまだ詩が書けるだけの準備ができていないけれど
その頃までに「一行の詩」が書ければと願うばかりである

■熊田千佳慕『新装版 私は虫である』
 (求龍堂 2023/4)

(「暮らす————流れのままに」より)

(ゆとり)
「わざわざ休日を作ったり、遊びの時間を作ったりすることが〈ゆとり〉であると思うのは大きな間違いである。
生活の中の小さなゆとり。
身のまわりにあるものに愛を感じ、美しさを感じ楽しいひとときを持ち、生活の中に豊かな感性を持つことが本当のゆとりである。
現在騒がれている学校や社会のゆとりは、只、休む時間であり遊ぶ時間である。精神的なものを伴っていない。
古来日本人は花鳥風月を愛する心を持ち、豊かな感性を持った生活をしていたのである。そこに本当のゆとりがあったのである。
ゆとりは作るべきものでなく、自ずからできるものである。」

(時を忘れること)
「すこしでもいい、時を忘れる。
例えば仕事中、美しいものに出会った時など。
今の時の一期一会のすばらしい連続であるように。」

(精神障害者の少年を預かって)
「その子にとって、自分は役立つことができるのかどうか、
という考えは間違っている。
その子とつきあって《ともだち》になれるか、
ということが大切なことである。」

「抱負なんて、贅沢なものはありません。
五日間のことだけ考え、無事に五日を過ごせたら、
また次の五日を考える。
それより先のことは考えず、
一日一日を大事に過ごしています。」

「今も現役だから、僕は老後がない。
大体、年齢なんて人間が作ったもの。
僕は数字が大嫌いなんですよ(笑)。
ときなかなくなっちゃったら、おしまい。」

(定年と老後という言葉)
「一般の人は定年が近づくと、すぐ《老後》という言葉に迷わされる。そんな時その人はすでに老後期に入っているのである。
人間は何でもいい、ある仕事を一生懸命にしていれば(結果を考えず)、かならず生き甲斐を見つける(出会える)ことができる。
それは七十になってからでも、又、八十になってからでもいい。
生涯の中にこうしたすばらしい一時期を味わえることが最も幸せではないか。」

(「仕事————手を通して伝わるもの」より)

「(山名文夫先生の)成城のお宅へ伺うと、画材がたくさん用意されていて。
僕は先生の言うことには何ひとつ逆らったことがないんですけども、あの時ばっかりはなぜかうんと言えなかったですね。
それで「鉛筆一本だけいただきます、鉛筆一本」ってこうやったら、先生が「消しゴムはいらないのか」って追われたので、
「いらないです、鉛筆一本で結構です」って、
鉛筆一本だけ、それと紙をいただいて帰ってきちゃったんです。
何かやっぱりけじめのようなものがあったんですね。

この瞬間こそ、僕の画家としての出発点でしや。
家に戻って、ちょっとスケッチをしてみようと思いましたが、
消しゴムもないので、安易な線は引けません。
とまどっていると、とつぜん、神の啓示か、
「物をよく見て、見つめて、見きわめる。そして線を確認して鉛筆を走らす」という画法を授かったのです。
この「見て、見つめて、見きわめる」のプロセスは、僕の画法のもっとも基礎となりました。」

「当時の僕には、消しゴムもない、だから、下書きもできない。
いい加減な線を引くわけにはいかないんです。
絵具も少量しかないから、失敗は許されない。しかも、相手は動き回る虫でしょ。瞼に焼き付くまで観察しないと描けない。」

「僕の人生は、七十歳がルネッサンスで、花開いた。
それまでは泥水の中にいるような人生(笑)。

八十代の時は、もう本当に青春でした。」

「今の時代は道具があり過ぎて、かえって不幸だと思います。
その色が何色と何色を混ぜたらできるのか知らないで描いている。」

「材料があり余るほどあって、何でも手に入るけれど、最後は人の手だと思う。
手の感触を大事にしないとだめだと思います。」

(「道————ひたすらに描く」より)

「望みはない、
望みを持つと打算につながるから、
僕はひたすらに、
ひたすらに描く。」

「自然そのものがアートなんですから、
こっちはほんとうに全部なくして無心で入ってしまえばいいんですよね。
そうしたら、そのままのものが出てきますから。」

(「自然————無心の美しさ」より)

「あせっても春は来ないし
忘れていても春は来る
自然はきわめて自然である。」

「何ごともゆっくりあせらずに待つ。」

「僕は「雑草」っていう言葉は使わないんです。
どんな小さな花でもみんな名前を持っていますし、
どんなものを見てもそれぞれの美しさを持っておりますよね。」

「自然は美しいから美しいのではなく、
愛するからこそ美しいのだ」

(「虫たち————小さな命」より)

「害虫と言って人は駆除しようとするけれど、
神様がそういうふうにその虫を作られたわけでしょ。
生まれた時からお前の食べるものは、なすだきゅうりだと教えられて、だからそればかり食べている。
虫にしたらそれがどうしてわるいのかわからないですよ、
人間のエゴでしょ。
生まれた時から害虫なんて言われたら、全くかわいそう。」

「心の目、心の耳、心の口

虫や花の美しさを愛することができる心の目
虫や花の言葉のわかる心の耳
虫や花と自然に話しかけられる心の口。」

「「私は虫であり、虫は私である」
このことを悟ってからは、自然は自分のためにあり、自分は自然のためにあるということを、つくづく実感、そして、身のまわりのごく普通の自然が、いままで以上に大事に思えるようになりました。
こうしてようやく、自分がやっている仕事の意味を、深く理解することができ、これから進むべき道に、確信を持つことができたのです。
「七十、八十になって初めて、一行の詩が書ける」
長兄の精華がよく、励ましで言ってくれた、このリルケの言葉が、これほど身にしみたことはありませんでした。」

(「いのち————愛するから美しい」より)

(《不思議》という言葉)
「科学者はすぐに《なぜ》《どうして》と問いかけてきます。
画家はまず《不思議だなあ》と感動します。
そこが画家と科学者の心の違いと言うべきでしょうか。
しかしファーブル先生は画家のような目を持ち、詩人のように感じる心の持ち主で、又、哲学者のように考える人でしたので、《不思議》という言葉を多く使っております。」

「人間は歳とったり、成功したりすると、
「何とかは何とかでなくちゃいけない」と覚えたい。
だけど、僕は今も何もわからないまま、今も結論が出ていない。

だから生きるんでしょ。」

「今月、私は九十八歳となりました。
人生の秋深いところに住んでいますが、心の中には、いつも春風が吹いています。
このギャップをうまく中和しながら生きていくことが、この年代の過ごし方であると知りました。」

◎熊田千佳慕プロフィール
1911年、横浜市中区生まれ。東京美術学校(現・東京藝術大学)卒業後、デザイナーの山名文夫氏に師事。デザイナー・写真家集団「日本工房」に入社。土門挙らと公私共に親交を深める。戦後、出版美術の分野で活躍するようになり、「ふしぎの国のアリス」「みつばちマーヤ」「ファーブル昆虫記」などの作品を発表。イタリア・ボローニャ国際絵本原画展で入選し、フランスでは「プチファーブル」と賞賛されるなど、国内外から高い評価を得る。2009年8月13日未明、誤嚥(ごえん)性肺炎のため横浜市の自宅で死去、98歳。

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