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宇野邦一『非有機的生』/宇野邦一「新しいコギト、あるいは非有機的生」(群像 2023年9月号)/松浦寿輝「遊歩遊心 連載第四十六回「ディオニュソスの地」」/ジル・ドゥルーズ『差異と反復 下』

☆mediopos3206  2023.8.28

さまざまな二項対立がある

「西洋/東洋、精神/身体、概念/図像、
制作/生成、樹木/リゾーム、自我/魂、
戦争(war)/闘争(combat)、
権力/力、超越性/内在性、二元論/一元論、
物質/理念、実体化/非実体化」

二項対立をいかに克服するかについては
先日もmediopos3198(2023.8.20)で
清水高志の「トライコトミー(三分法)」を
とりあげたところだが

その方法とは異なるものの
宇野邦一『非有機的生』で論じられる
有機性と非有機性の二項対立は
ほかのそれにもまして
単純な二項対立ではとらえられない

人間は有機的なものである自然を加工改変し
非有機的な自然とすることで
ある種の「自由」を得てきたともいえるが

いまでは遺伝子組換技術や生命操作
そしてAIのような人工知能といった
非有機的な技術によって
人間そのものも非有機的な対象として
捉え返されるようになり
さらに政治はほんらい有機的である人間を
非有機的な操作する対象として
働きかけるようにさえなっている

本書では有機性と非有機性という問題系を
さまざまな対立的な二元性をふまえながら
それらに対して要約でも綜合でも
ましてや解答でもなく
著者がこれまで行ってきたさまざまな思索を
互いに照らすものとして刊行されているという

著者の言葉でいえば
「〈非有機性〉を焦点とし、また争点として、
現代の芸術、思想、政治が交錯し、
せめぎあうような場所を照らし出すこと」
それが本書の目標である

おりよく「群像 2023年9月号」で
本書の内容に関連した
「新しいコギト、あるいは非有機的生」という
論考も掲載されている

「非有機性」は
「生命が新たに獲得し、実現し創造する無機性」であり
「言語、精神、社会そしてあらゆる技術、機械、制度」は
「有機性が新たに実現した領域、活動、物からなる
非物質的な次元」なのだが
それらはもちろん「有機性」なくしてはあり得ない
そんな「非有機性」である

「有機的生命は、
物質がいつしか獲得した「自由」であるとしても、
人類はその「自由」を
きわめて抑圧的、暴力的な体制に変えてもきたので、
私たちはいつでも服従や閉塞や停滞に陥る」

「非有機性」とは
「その自由からの自由であり、
そこから多くの危険、恐怖、脅威も生み出されるが、
それなしには、私たちはただ不自由そのものと化した
自由にみずからを閉じこめて、
生きさせられるだけ」となってしまう

そのように
有機性と非有機性はたんなる対立的な二元ではなく
有機性ゆえの「反復」に
非有機性という「差異」を取り入れることで
「自由」を展開させる可能性を開き得る
メビウスの環のような関係性を持っている

有機性をアポロン
非有機性をディオニュソスで象徴すれば
ドゥルーズが『差異と反復』において
「アポロンの有機的血管にディオニソスの血が
少しばかり流れるようにすること」という警句で
表現していることでもあるだろう

ディオニソスのないアポロンは
閉じた円環にいる生命にすぎない
ディオニュソスはいわば「自我」をも象徴するが
「自我」の孕む危険性を排したところでは
高次の「自由」を得ることはできないのである

■宇野邦一『非有機的生』(講談社選書メチエ 2023/4)
■宇野邦一「新しいコギト、あるいは非有機的生」
(群像 2023年9月号/特集 戦場の_ライフ)
■松浦寿輝「遊歩遊心 連載第四十六回「ディオニュソスの地」」
(文學界 2023年7月号)
■ジル・ドゥルーズ(財津理訳)『差異と反復 下』(河出文庫 2010/8)

(宇野邦一『非有機的生』〜「序章 (非)有機性についての混乱を招きかねない注釈」」より)

「〈非有機的生〈inorganic life〉〉と聞けば、まず尖端技術によって合成される生命のことを思い浮かべる人々もいるだろう(「合成生物学」と呼ばれる分野があるらしい)。遺伝子の組み換えまでも実現するようになった科学技術にとって、それは究極の夢であるにちがいない。古くから人間の行動と思考は、しばしば自然を観察し、模倣するかのようにして形成されてきたが、しだいにみずからの行動と思考そのものを、そっくり技術的手段によって代替させることが試みられるようになった。それは単なる夢想にとどまらず、すでに様々な形で実現されている。高性能のロボットやAIは、まだ身体とも脳とも、まったく異質な装置であるが、すでに〈非有機的生〉の模型のようなものとみなすことができる。
 有機性とは、生命そのものの定義であるとすれば、非有機的生命とは、もちろん逆説にほかならず、そのようなものが存在するはずがない。しかし少なくとも、そのように不可能なものに向けて試行錯誤を続け、ときには古来の夢を飛躍的に実現するかのような技術や機械が登場して、いっそう高度な達成に向かう。そのような人間の野望は、少なからず自然の領域そのものを侵犯することになり、様々な危険をともなう。逆に自然を保護し、有機性を尊重し保全し、あるいは聖化しようとするような傾向がそれにあらがう。「有機」という名のついた農法や食物が、新たに付加価値を帯びて流通するようになる。そのような傾向も含めて、〈有機性〉のほうも無視しがたい意味の連鎖を拡げている。」

「自然の中の有機性について語っているのは、非有機的人間であり、その人間は、自然を自分の「非有機的死体」にすることによって活動してきた。しかし有機性について語り、思考することは、それほど簡単ではない。多くの混乱がそこに迷いこんでいる。有機性について語っているつもりで、実は非有機性について語っている。あるいは非有機性とみなしていることが、有機性の延長にすぎない。カントが混乱していたとは思わないが、有機性を合目的性として考察したその哲学は、しばしばトートロジー(循環論法)のように見える。」

「この本で、私は有機性/無機性の他にも、様々な二項対立を扱うことになる。二つのうちどちらが正しいか。どちらを肯定するかを言うためではない。そしてそれぞれの二項は、他の二項に対応するわけでも、重複するわけでもない。決して二つに分割すること自体が目的ではなく、むしろそのような二分法を通じて、ついにはそれを脱して思考しようとしている。
 西洋/東洋、精神/身体、概念/図像、制作/生成、樹木/リゾーム、自我/魂、戦争(war)/闘争(combat)、権力/力、超越性/内在性、二元論/一元論、物質/理念、実体化/非実体化、そして有機的生/非有機的生・・・・・・
 それぞれの二項を、より多様なもの、微細なものの間において考えるにつれて、それは果てしないスペクトラムとして渦巻くようになったが、そこでとりわけ有機的なもの非有機的なものの二項が、ますます強い兆候を放つように見えてきた。やがて「非有機的生」は、この本の思考の焦点として表れていた。もちろんそれは、しばしば途方にくれた私の追求にとっての仮設的、実験的焦点にすぎず、たくさんの複雑な問題を要約するものでも、その答えでもない。応答ではあるが、解答ではない。」

(宇野邦一『非有機的生』〜「終章 問いの間隙と分岐」より)

「この本で「非有機性」として描述された状態は、もちろん無機性と同じことではなく。有機体の現実に深く根ざし、決してそれとの接触を失うことがない。にもかかわらず有機性から離脱し、その安定的な構築や組織や連鎖の外に出ている。それはどこまでも有機性に依拠し密着しながらも。まったく異質なものに転換している。」

「有機体がすでに自己維持、自己複製、そして変異と進化の可能性によって物質からの自由であり飛躍(躍動)であるならば、非有機的生は、さらにその自由からの自由であり、超脱であり、出来事の出来事である。しかしそれはあくまでも生命がある得意な状態として生み出したもので、有機性の異なる表出であり、その反復でもある。こうして有機性は非有機性を生みだしたのである。
 身体にも、精神(心)にも、そのような状態が、浸透し、横断し、振動し、貫通する、あるいは内向し、潜在する。非有機性は、思考、言語、イメージにも、欲望や情動にも潜在し、たえず顕現する。そのような非有機性は、有機性に対して破壊的に作動する知識や技術さえも次々生みだしてきた。
 非有機的生は、創造的であり破壊的である。それ自体を享受し、それ自体から逸脱し、有機性とは異なる次元の別の生の次元を作り出している。その次元は必ずしも意識の表面に上らないまま、人間の生を規定している。非有機的なものに深く浸透され規定されているにもかかわらず、私たちはしばしば有機的なものの知覚や知識によって、それを理解するだけにとどまっている。非有機的生は、まだ知られざる自由でもあり、知られざる恐怖でもありうる。」

(宇野邦一「新しいコギト、あるいは非有機的生」より)

「〈非有機的生〉とは、私にとって、とりわけアルトーとドゥルーズに触発されてきた数々のことを集約する主題でもある。Inorganicは〈無機性〉とも〈非有機性〉との訳しうる。無機性(無機物)とは有機体つまり生命以前の、生命活動を欠いた物の状態を示すが、非有機性は、むしろ生命が新たに獲得し、実現し創造する無機性のことでもある。それは生命から分離し、飛躍し、超越する次元でもある。端的に言語、精神、社会そしてあらゆる技術、機械、制度は非有機的であるが、それらはやなり身体・生命の活動でもあるかぎり、有機性が新たに実現した領域、活動、物からなる非物質的な次元にほかならない。思考も言語も、身体の活動とともにあるかぎり、身体(生命)それ自体の変形であり拡張であるにすぎないといえよう。それらは有機性自体の産物でもあり、有機性なしにはありえない非有機性なのだから、あくまでも有機性に属する非有機性であり、生の非有機化でもある。思考不可能の状態にあったアルトーは、自己を「精神も身体も含めて)、石、鉱物、金属のように、つまり「無機物」のように感じていたが、彼にとっては有機体の活動のただ中に、そのように奇妙な非有機化が起き、ある非有機的生が出現していたと表現することもできる。
 このように有機体と非有機体のたえまない結合や分離を考えざるをえないのだが、これは「組織」、「システム」そして「自己組織」(オートポイエーシス)などとして盛んに論じられてきた問題に少なからず関係する事柄でもある。」

「アルトーは決して哲学者のように「器官なき身体」を普遍的な概念にしたてたわけではない。アルトーの「器官なき身体」は、はるかに特異的な観念であり、特異的に用いられている。決してそれはシステム論などではないのだ。決して「器官なき身体」という「身体」があるわけではない。むしろ身体を感じ、生き、認識することが、ひどく限定され、局限されていることがあたりまえになっている人間の生き方に対する深刻な抗議が、その言葉で言明されていた。「器官のない状態として」身体を全的に生きる、という法外な要求を、アルトーは人間の生につきつけていた。「器官なき身体」とは、数々の奇妙な生きがたい状態を生きた魂が、根底的に、精密に、それを診断したすえに表明した身体の思想(そして倫理)だったのだ。それは「存在」そのものが「器官」となる、「道具」におとしめられているこの世界への根本的な異議申し立てでもあった。
 じつは哲学・思想の中にもまた有機的な、そしてむしろ器官的な体制が深く浸透している。アルトーを引用して「思考のイマージュ」を批判したドゥルーズは、その意味で、根本的に反哲学的で、哲学の制度や規制を明らかに逸脱していた。ドゥルーズの思考は、しばしば〈詩的、文学的〉に見えるとしたら、そのことには深い必然性があった。学問のなかにも、科学技術の認識のなかにも器官的体制が深く浸透して、この体制を支えているのだ。もちろん詩や文学自体もその例外ではない。それに介入するには、ある精妙な思考と実践、そしておそらく冒険が必要である。そしてドゥルーズがたびたび注意をうながしたように、決して器官を破壊し、廃絶することなどできないのだ。むしろそれは有機的なものを理解し、実践を要求するのであるが、思考するたびに、私たちはいつもそうせざるをえない、ということでもある。有機的生命は、物質がいつしか獲得した「自由」であるとしても、人類はその「自由」をきわめて抑圧的、暴力的な体制に変えてもきたので、私たちはいつでも服従や閉塞や停滞に陥るからである。非有機性とは、器官なき生とは、その自由からの自由であり、そこから多くの危険、恐怖、脅威も生み出されるが、それなしには、私たちはただ不自由そのものと化した自由にみずからを閉じこめて、生きさせられるだけである。」

(松浦寿輝「遊歩遊心 連載第四十六回「ディオニュソスの地」」より)

「『差異と反復』の、壮麗にして激越なコーダのように鳴りわたる「結論」を、ジル・ドゥルーズは「表象=再現前化(représentation)」概念の徹底的な批判から書き起こしている。その冒頭近く、「哲学の最大の努力」は、「表象」に、眩暈の、酩酊の、残酷の、さらには死そのものの力を獲得させることだったと言ったうえで、彼はそれを「アポロンの有機的血管にディオニソスの血が少しばかり流れるようにすること」という鮮烈な警句で言い換えている。
 「ディオニソスの血」とはここでむろん、プラトン以来の西欧哲学が、散発的な挿話(ドゥンス・スコトゥス、ライプニッツ、ニーチェ)を除けば二千数百年来それを思考しそびれていたと彼が言う、「差異」の概念そのものにほかならない。同一性、類比、対立、類似の軛に拘束された「表象」の身体に、「差異」の血を流しこみ、澄明な理性の行使を血腥いオルギアの祝祭へと変容させること————『差異と反復』一冊そのものが、この驚くべき哲学的冒険の壮大な記念碑であるのは言うまでもない。」

「先ほど引いたドゥルーズの言葉で「アポロンの血管」に「有機的」という一見言わずもがなの形容が付されていることに、首をかしげた読者がいるかもしれない。そうした向きには、宇野邦一氏の力強い新著『非有機的生』(講談社)の一読を勧めたい。そこで宇野氏は、ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』で展開される過激な「有機体」批判————「身体は決して有機体ではない。有機体は身体の敵だ」————を梃に、「非有機性」の概念が包摂するめくるめくような広大な思考の地平を切り拓いてみせている。」

(ジル・ドゥルーズ(『差異と反復 下』〜「結論 差異と反復」より)

「差異は、表象=再現前化に服従させられているかぎり、それ自身において思考されていないし、それ自身において思考される可能性もない。」

「哲学の最大の努力は、おそらく、表象=再現前化を無限な(オルジックな)ものにするところにあった。表象=再現前化を差異の過大および差異の過小へと拡張すること、表象=再現前化に予想外のパースペクティヴを与えること、すなわち、表象=再現前化に即自的差異の深さを包含させるような神学的、科学的、美学的技法を公案すること、表象=再現前化をして曖昧なものを奪い取るようにさせること、表象=再現前化に小さすぎる差異の消去と大きすぎる差異の解体を含むようにさせること、表象=再現前化にめまいの、酩酊の、残酷の、そして死さえの力を取り込むようにさせること、まさにそれが問題になる。要するに、アポロン〔表象=再現前化〕の有機的な血管に、ディオニソス〔差異〕の血が少しばかり流れるようにすることが問題になるのだ。以上のような努力は、どのような時代でも表象=再現前化の世界に浸透したのである。」

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