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近藤 祉秋『犬に話しかけてはいけない/内陸アラスカのマルチスピーシーズ民族誌』

☆mediopos2895  2022.10.21

著者の近藤祉秋は
マルチスピーシーズ民族誌と環境人類学の視点から
内陸アラスカ先住民の人々のところで
フィールドワークを行い
人間と自然の関係を問い直そうとしているが

その関係は
「人間中心主義」でも
「生命/生態系中心主義」でもない

現代は人間中心主義によって
環境に対してもさまざまな問題をもたらしているが
そのアンチとして「人間不在」の世界を論じるのは
こうした内陸アラスカ先住民の人々の「生」を
捨象してしまうことになる
どちらも人間と自然の関係としては不毛である

内陸アラスカ先住民の人々が
動植物や精霊そして土地とのあいだで
どのような関係性をもちながら暮らしてきたか
そのありようから
人間か自然かではなく
人間と自然がどのような関係性のもとで生きてゆけるか
その意味での「自然との共生」を問い直すことが課題だろう

「マルチスピーシーズ」とは「多種」
その「多種」とともに生きのびる知恵が問われねばならない
それによって「世界をつくる実践」を行うこと

つまり「ときに重なりあい、ときに反目しあいながら、
諸々の存在が世界への働きかけを通して
新しい存在を生み出したり、また別の存在にとっての
新しい生の条件となっていったりすること」そのものである

本書のタイトルは「犬に話しかけてはいけない」
となっているがこれは
内陸アラスカ先住民の人々の
「交感しすぎない」「構いすぎない」という知恵を意味している

「一部のエコロジー思想家にとって」
「「自然」と「交感」する人間」は
「近代人が取り戻すべき姿であるかもしれない」のだが
それは内陸アラスカ先住民の人々の知恵とは異なっている

その知恵とは「自然と共生する美しい生き方」ではなく
「他種の間で生きることの煩わしさに
長年向き合ってきた結果として生まれた彼らの構え」なのだ

その知恵は彼らが「共異身体」を生きていることからきている
「多種」とともにそのなかで生きるということは
決して「同化」するということではないからだ
彼らの神話も禁忌もそんな関係性のもとから生まれてきた

彼らの自然との関係性は決して過去のものではない
「その一部は消滅していきながらも、
現在でも語り継がれたり
実践されたりするアクチュアルなもの」であり
その関係性を学ぶことによって
わたしたちは人間か自然かというような「主義」ではなく
あらたな「生」のありようを作り出すための
問いへと開かれる契機を持ち得るのではないだろうか

■近藤 祉秋
 『犬に話しかけてはいけない/内陸アラスカのマルチスピーシーズ民族誌』
 (慶應義塾大学出版会 2022/10)

「「交感しすぎない」ことが内陸アラスカ先住民の知恵であるとすれば、それは彼らが「共異身体」を生きているからに他ならない。共異身体は、絡まりあいを前提とした、多種の開かれた身体である。北方アサバスカンの人々にとっての「社会」化は、常にすでに共異身体の(共)生成をともなっている。日本から来た人類学徒に生業活動を自分でも実践することを望むのは、彼らの世界での生き方を学ぶことが、常に多種との関わりに開かれていることを意味するからだ。
 このような共異身体を生きる人々であるからこそ、「交感」はときに危険をはらむ。自己完結型の身体であれば、みずからは常に認識する人間=主体であり、その主体のもとにまなざされる「自然」が立ち現れる。他方で、共異身体のもとでは、そのような一方的な主体/客体関係をア・プリオリに想定することはできない。共異身体における主体性は実践の中で一時的にのみ発生するものであり、ある実践が可能となる原因でもあるというよりも、その実践の効果として捉える方がより正確となる。「犬に話しかけてはいけない」という禁忌は、犬の言語能力が〈ワタリガラス〉によって奪われたという神話を背景として、ゴールドラッシュ以前の犬ー人間の関係性を形づくっていた。同様に、兄弟を殺して大空に上がった〈月〉の神話も、「月を見つめすぎてはいけない」という禁忌をともなっていた。このような神話(フゾッシュ)と結びついた形で提示される禁忌(フツァニ)は、犬ー人間や月ー人間がいとも感嘆に「交感」しあってしまうからこそ必要とされていた。犬の場合も月の場合も、過剰な交感が生じると疫病や洪水のような形で人々の死につながる。神話とは必ずしも連動していなかったが、雨雲が人の言葉を聞きつけてしまわないように、雨についての言及を避けるダニエルの態度は一種の禁忌とも言える。禁忌の役割の一つは、過剰な交感から共異身体の集まりを守ることなのではないかと考えられる。ディチナニクの子どもは望ましい特徴を持った動物の部分を身体に接ぎ木されることで成人に近づく一方で、禁忌によって過剰な交感から守られている。これらの習慣は、共異身体を生きる者たちにとってコインの裏表である。
 月にまつわる神話と禁忌を紹介した際に、フィリップがアポロ計画に対して怒りを覚えていたことを述べた。それは、宇宙船が月面に着陸することで情緒不安定な〈月〉を怒らせてしまったからだと説明されていたフィリップにとって、月は注意を要する存在であり、必要以上には近づかず放っておくべき存在であった。禁忌によって共異身体を守ることと関連する別の側面は、「構いすぎない」という知恵である。ビーバーダムにすき間を開けることでも、渡り損ねた「残り鳥」を冬の間飼うことでも、重要なのは生きものたちが「世界をつくる実践」をおこなうのを邪魔しないことである。内陸アラスカでの「ともに生きる」ことは、ベストの状態で「世界をつくる実践」に携わることができるような関係性をともに築くことである。一時的な保護や介入につながることはあったとしても、多くの場合、それらは永続的ではない。」

「多種による「世界をつくる実践」は、人間とその子分である他種でどのような世界でもつくりあげることができるという全能感を意味するのではない。この言葉で私が表現したかったのは、ときに重なりあい、ときに反目しあいながら、諸々の存在が世界への働きかけを通して新しい存在を生み出したり、また別の存在にとっての新しい生の条件となっていったりすることである。だからこそ、人々は自己完結しえない。「自然」と「交感」する人間は、一部のエコロジー思想家にとって、近代人が取り戻すべき姿であるかもしれないが、私がフィールドで目の当たりにしたことの一つは、自己完結しないがゆえの煩わしさであった。もし私たちが荒らすか先住民の生き方から何かを学ぼうと思うのであれば、それは「自然と共生する美しい生き方」ではなく、他種の間で生きることの煩わしさに長年向き合ってきた結果として生まれた彼らの構でえあるべきだと私は考える。」

「私は人間中心主義でも生命/生態系中心主義でもない第三の道を探ることを目指したい。管見では、絡まりあいを考えることは、人間が中心か、生命や生態系が中心かという二択(もしくは三択)の問題ではない。むしろ、中心ー周辺の階層的な秩序が成り立たないような状態こそが絡まりあいではないか。ポストヒューマニティーズに対する批判として、「人間」を捨象してしているというものをよく耳にする。確かに一部の論者は「人間不在」の世界を論じるようになってきたし、「人間」に対する不信感を告白する者もいる。しかし、本書では「人間」中心主義に異議を唱えながらも、具体的な(共異)身体を生きる人々を決して置き去りにしたつもりはない。人間中心主義への批判は往々にして生命中心主義や生態系中心主義に改宗されてくが、もしその批判はそこに生きる人々の生を捨象することにつながるのであれば、「人間」中心主義と同様に、もしくはそれ以上に暴力的である。本書では、他種の絡まりあいから創発し、共異身体として生きる「デネ=人々」を考えることで、自己完結的で常に認識主体として「自然」を分節化するような「人間」中心主義から離れる道を模索しながら、人々の生を捨象してしまわないように注意を払った。」

「読者の中には本書で論じた知恵がもうすでに賞味期限が切れているのではないかという意見を持つ人もいるかもしれない。人新世を生きる私たちにとって、今さら内陸アラスカ先住民の人々が動物や土地といかに付きあってきたかに関する説明や彼らの神話・禁忌のたぐいについて知ったところで何の役に立つのであろうか。確かに本書は人新世に対する解決策を直接的に示すことを目指すものではない。本書で提示できたのは、内陸アラスカ先住民がさまざまな存在との付きあいの中で育んできた知恵に関するものにすぎない。他方で、本書で扱った事例(とくに神話や禁忌)は滅びるのを待つ過去の遺物ではなく、ぞれぞれの人々による試行錯誤を経て、新地代謝をくり返していく。その一部は消滅していきながらも、現在でも語り継がれたり実践されたりするアクチュアルなものである。」

「フリップは、先祖から伝えられてきた予言として、いつか村外から運ばれてくる「白人の食べもの」(おもに加工食品)が来なくなってしまい、人々じゃ自給自足の生活に戻ることになると語っていた。究極的には信頼に値しないものである。だからこそ、フィリップや彼の親族たちは、森や川の生きものたちとの交渉が楽しいときばかりではなく、ときに煩わしさを含むものであったとしても背を向けることはない。人新世をどう生きのびようと思うか、それはあなた次第だ。」

【目次】

はじめに――ある日の野帳から

第1章 マルチスピーシーズ民族誌へようこそ
現代人類学への道
マルチスピーシーズ民族誌の誕生
人新世と環境人文学――マルチスピーシーズ民族誌との関連から

第2章 ニコライ村への道のり
ニコライ村
フィールドワークの始まり
本書のおもな登場人物
個人主義的な人々?
徒弟的なフィールドワーク
フィールドワークの身体性

第3章 ワタリガラスのいかもの食い──ある神話モチーフを考える
トリックスターとしてのワタリガラス
神話は子育てによく効く?
犬の屠畜とワタリガラス神話
犬屠畜モチーフが他地域からもたらされた可能性はあるか?
〈ワタリガラス〉の犬肉食は、動物行動学で説明できるか?
〈ワタリガラス〉の犬肉嗜好モチーフは修辞戦略としてみなしうるか?
多種の因縁を語る神話

第4章 犬に話しかけてはいけない──禁忌から考える人間と動物の距離
ある禁忌の語りから
運搬・護衛・狩猟
犬ぞりの受容と二〇世紀初頭の変化
犬ぞりの現在
犬―人間のハビトゥス

第5章 ビーバーとともに川をつくる──「多種を真剣に受け取ること」を目指して
ビーバー論争
生態学・生物学と対話するマルチスピーシーズ民族誌
ビーバーとディチナニクの人々の関わり
ビーバーダムとギンザケ
ビーバー擁護派と反対派の二項対立を超えて
キーストーン種とともに考える
マルチスピーシーズ民族誌が目指すこと

第6章 「残り鳥」とともに生きる──ドムス・シェアリングとドメスティケーション
ドメスティケーションの周辺から考える
野鳥の餌づけ・保護・飼育
「残り鳥」と住まう
野鳥とのドムス・シェアリング
ドムス・シェアリングとドメスティケーション

第7章 カリブーの毛には青い炎がある──デネの共異身体をめぐって
北方アサバスカンの身体
共異体と社会身体
サイボーグ・インディアン
カリブーの民とオーロラ
巨大動物と超自我
ぬくもりの共異身体

第8章 コウモリの身内──環境文学と人類学から「交感」を考える
悪魔からロールモデルへ
目的としての「交感」と実用的な「交感」
生きものとの会話と非会話
「交感しすぎない」という知恵

おわりに――内陸アラスカ先住民の知恵とは何か?
マルチスピーシーズ民族誌の射程
各章の概要
アラスカ先住民の知恵
第三の道を探る

あとがき

初出一覧
図版一覧
動物の名称一覧
参考文献一覧
索引

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