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古田裕清『西洋哲学の基本概念と和語の世界』

☆mediopos2744  2022.5.23

日本の哲学用語は明治以降
ギリシア自然哲学・ローマ法・キリスト教が
源泉となって欧州でつくられた学術用語を
多くは漢籍からの転用・新造語によって
翻訳・導入したものであり

欧州での哲学用語の多くが
日常語をベースとしていることが多いのに比べ
日本語でのそれは抽象度がきわめて高く難解であり
用語として定着してはいても
日常的に使われる言葉とはかけ離れている

昨日のmediopos2743(2022.5.22)でもとりあげたが
日本語には主語がなく述語的だといわれているのに対し
(現代の日本語文法は
西欧の文法体系に沿って作られていて
それで日本語を説明するのは無理がある
たとえば「ぼくはウナギだ」のように)
西欧の言語の基本は主格が中心となっている

人称に関しても
おそらく日本語表現においては
1人称・2人称・3人称の別は明確なものとはいえない
それは動詞変化がないことからも知られる
しかも単数と複数の別も付加的にしか存在しない

その他にもさまざまな相違があるが
それらを越えながら
漢字を使ってさまざまな用語が翻訳されてきた
現代ではカタカナ表記もふえたが
それで世界観の相違が乗り越えられているわけではない

本書では「主観と客観」「観念と実在」「帰納と演繹」
「総合と分解」「実体と属性」「原因と結果」
「可能と現実」「能動と受動」「理性と感性」
「普遍と特殊」といった基本概念における
「和語」の世界の諸問題がとりあげられ
その本来の意味を明らかにしながら
翻訳によって失われがちなところが解説されている

以下の引用ではそうしたなかから
最後の章の「普遍と特殊」をとりあげながら
とくに日本語における「る(らる)」という
自発・可能・尊敬・受身を表す言葉が
日本における同調圧力への迎合にもつながるものであること
それを避けるためには
「全体における部分(個)としての自覚を持ちつつ
その全体を写実的に描き出し、
これを各自が引き受ける」必要があることが示唆されている

つまり和語には個を前提とした主語がなく
「る(らる)」という「得」の論理のもとに
ある権威がそこに空気のように働きながら
責任者不在のもとに受け手が共同化してしまうところがある

それを西行のごとく
「何事の おわしますかは 知らねども
 かたじけなさに 涙こぼるる」
というポエジーの深みとしてとらえる美意識はあっても
何かが明確にされなければならないときにさえ
「何事の おわしますかは 知らねども」のまま
「全体主義」的な状態が現出してしまうのである

哲学を西洋的な思考と論理の枠のみでとらえる弊害もあるが
基本的な世界観や言語表現や基本的な文法の相違は
可能なかぎりふまえておく必要がある

たとえば「ロゴスの論理」に対する
「レンマの論理」というように

■古田裕清『西洋哲学の基本概念と和語の世界』
 (中央経済社 2020/9)

(「まえがき」より)

「明治以降、日本語には欧州原産の学術用語が大量に翻訳・導入された。日本語は元々こうした用語を持たなかった。翻訳・導入は、ほぼ例外なく、原語の意を汲み取って新たな漢語語彙を考案してあてがう作業となった。ここに記した「原産」「学術」「語彙」「翻訳」「導入」なども皆、その時代に作られた語彙である。こうした語彙は漢籍からの転用、あるいは新造語で、どれも当時は非日常的かつ往々にして難解な語彙だった。それから150年近くが経過し、法律経済や科学技術など実用度が高い語彙は、学校教育や社会実務、マスメディアにも助けられ、かなり日常に定着した。

 欧州由来の学術用語の源泉は大きく見えて三つある。ギリシア自然哲学、ローマ法、そしてキリスト教である。この三つが融合して近代欧州の機械論的な自然観を生み出し、これが近現代の科学技術や法の支配の発展につながった。その際、基本的なツールの役割を果たしたのが古代ギリシア以来受け継がれてきた哲学用語である。これらも明治以降、漢語語彙で翻訳され、日本に導入された。しかし、その抽象度の高さと訳語の難解さがゆえ、日本の市民生活に定着せず、学術研究者にさえその意味がいまだに正しく理解されているとは言えない面がある。欧州の哲学用語は大半がプラトンとアリストテレスが生み出したもので、古代ギリシアにあっては日常語だった。そして、現代に至るまで欧米で継承され、やはり日常的に使われ続けている。本書はこうした用語の幾つかについて、その日常性、法律や科学技術との結びつきを射程に入れつつ、来歴をひも解き、正しい理解につなげることを目的とする。

 欧州哲学は偽なるものを排し、真なるもののみを追求する営みである。似たような営みは欧州以外のどの文化圏にも昔から存在する。欧州哲学が他の文化圏における知的営みと違うのは、それが古代ギリシア以来、万学を生み出す母胎となり、同時に日常生活の秩序を研磨する力ともなってきたことだろう。欧州の哲学用語は、法律学から物理学まであらゆる学問ジャンルにおいて、今も探求へと向かう巨視的な枠組み(人間観、世界観)を提供している。日本にも定着した大学という研究教育機関は、ギリシアの伝統を取り入れた中世カトリック圏において、一般教養(自由七科)の学習後に法学部・神学部・医学部へと専攻分けする形態で始まった。一般教養教育を担当した組織は後に哲学部と呼ばれるようになる。ここでは今でいう文系・理系双方にまたがる広範な研究が行われた。欧米では現在も人文・社会・自然科学を網羅する幅広い領域で「哲学博士(Doctor philosophicus)」の称号が学習証明として与えられる。他方、神学・医学・法学は職業(神父・医師・法律家)と結びついた実学で、学術研究の方法論となる哲学の影響下に置かれてきた。」

(「第8章 能動と受動」より)

「古形「(せ)らる」の原意を確認したい。これは「す」の未然形と助動詞「らる」の複合系・「らる」は「る」の別形。「る」は四段活用などの未然形に、「らる」は下二段活用動詞などの未然形に、後置される。「る」「らる」(現代語形「れる」「られる」、以下「る」で代表)は学校文法で用法が自発・可能・尊敬・受身へと区別される。「先人の苦労が偲ばれる」は自発、「この程度の峠なら楽に越えられる」は可能、「先生が壇上で話される」は尊敬の意。「財布を取られた」のように、受身は被害や不利益を表現することが多い。「る」は下二段活用」(・・・)これは動詞「得(う)」の先頭に子音rが付加された形。つまり、「る」は子音rと「得」の合成形と解せる。「得」は手に入れる、(獲得済みで)秀でる、できる、と意味が広がる。話者に未獲得だったものが手に入る、未実現だったものが実現される、という利害関係を指す語。その獲得・実現は、話者の努力や働きかけによる場合もあるが、成り行き任せの自然発生であることも多い。何れにせよ、話者は身を以てその獲得・実現を引き受ける(利害に与る)。これが「得」の諸用法に通底する合意であり、そのまま「る」の通底的合意でもある(・・・)

 「る」の用法の一つである受身(うけみ)は、現代欧州語の受動(能動と対立)とは違う。「る」が含意する受身(わが身への引き受け)に、引き受けさせる側の能動者は存在しない。峠越えを我が身に引き受けるとき、何から我が身に峠越えを引き受けさせているわけではない。先人の苦労が偲ばれるとき、偲ぶ私に何ものかが能動的な働きかけをしているわけではない。財布を取られて狼狽する状態は、何者かの農道を受動中の状態とは言えない。「る」は受身と呼べても受動とは形容できない。

 「る」の受身は古代ギリシア語の受動(自らが発出源でない動き変化を主格が被る)とも違う。和語の動詞はそもそも主格を要求しない。(和語の助動詞はおそらく漢文の影響で接続助詞から派生した後発生的なもの)。「る」「得」は受身の当事者(・・・)の目線を前提するが、その当事者を明確に名指しする必要はなく、ましてやその主格としての表示は文法的に求め得ない。」

(「第10章 普遍と特殊」より)

「和語は名詞に単複の区別がなく、冠詞もない。普遍・個別の対立に当たるものが文法上自生することも意識化されることもなかった。端的に言って、和語は普遍・個別という相の下に世界を見ない。明治以降、この対立の所産が欧州から日本に大規模に流入した。日本語生活者はこれを巧みに漢語翻訳語で写し取り、生活に生かし、国土の風景を一変させていった。これは和語の世界にこの対立が定着したことを意味しない。この対立は知識として理解されてはいても、和語の世界を全く浸食していない。

 英the catは特定単数の猫(個物)あるいは普遍としての猫。a catは不特定単数の猫(個物)。catsは複数の猫(複数の個物)。冠詞を持つ欧州語はこうして文法的に普遍と個物を表現し分ける。和語は「ねこ」という名詞に対して、その単数性を強調する場合は「一匹の」など数詞を添付、その特定性を表現する場合は指示詞「この」「その」などを添付し、複数を表現する場合は指示詞を複数化(「これら」「それら」)、あるいは「ら」「ども」などを名詞に後置する。普遍としての猫を際立たせるなら「そもそも猫というもの」など長い装飾をする。「ねこは耳が短い」と言った場合、「ねこ」は単数・複数・普遍のどれとも解釈可能。和語を普遍・個別ペアで解釈すると、こう形容するしかない。

 欧州語の定冠詞はもともと和語なら「そ」(「それ」「その」)に相当する指示詞だった。「そ」の語源は不詳だが、サ変動詞「す」(第8章「得」の論理に従う語)の命令形「そ」と同根の可能性がある。もし同根ならば、「そ」は近接する自発的可能性を引き受けよ、と話者が聞き手に促す表現であることになる。何れにせよ、「そ」は状況(話者)依存性が高く、発話行為現場に縛られる語彙。他方、プラトンのイデアはこうした依存性から独立し自存する普遍的存在(今風に言えば客観的実在)。ギリシア人はこうした存在を中動態的な宿命(「テオーリア」)として投影し、元来は状況依存性が高い指示詞をその徴表(定冠詞)に転用した。「そ」はこうした転用を受けなかった。しかし、和語で普遍を無理に表現する際に使われる「そもそも」は、「そ」と「も」(係助詞)の合成語「そも(其も)」の重音化。どんな個別自然言語も、事物の本質的特徴への言及には指示詞を援用するしか方途がないのかもしれない。」

「個物は全体(形相、イデア)が宿ることで初めて成立し、その意味で全体の中で位置づけられ、運命づけられている。全体の中で部分が果たすべき役割が決まっており、それをつつがなく果たすことが美徳(かくあるべし)。こうした古代ギリシアの中動態的な世界観は、ローマ化・キリスト教化を経て近現代科学の要素還元的な方向性(自由で平等な個人という近代欧州の人間観や外延・集合を中心に考える現代の形式科学もこの方向性を体現する)により克服されたかにも見える。だが、要素還元的な自然科学や法の支配もイデア信仰が母胎となって生み出されたことを本書は敷衍したきた。量子力学のような確率論的な世界は要素還元思考の行き詰まりを示す、とも指摘されるが、確率論も数学的構造というイデア的法則性の追求結果である点に変わりはない。こうしたイデア追求的な世界観は、そもそも和語の世界と親和的でない。全体と部分を対立させ、部分を支配する全体を観照(テオーリア)し、この全体の中に自らを主格的思考により位置づけて自己制御に活かす。これが科学技術と法の支配に共通する発想である。ギリシアの全体主義的な美徳は、同調圧力に屈するという和語の世界の美徳に外見上、似ている。だが、和語の世界には主格思考(個を前提とする)がない。日本における同調圧力への迎合は、各自の部分(個)としての自己意識に因るものでなく、「得」の論理に支配された無私の自発・可能・受身である。全体における部分(個)としての自覚を持ちつつその全体を写実的に描き出し、これを各自が引き受けるのではなく、何らかの価値規範が一つの全体として自発し、読者と聞き手が共同体化して共にこれを「得」の論理で引き受ける。一人一人が心中穏やかでなくても、狼狽えながらであっても全員が右向け右となる。その淵源は弥生的な稲作への協力強要なのか、縄文的な畏敬と感謝を伴う自然との同化なのか、それ以外なのか、不明である。何れにせよ、我々は主格思考が根づきにくい和語の限界を自覚し、その限界を踏まえつつ法の支配を一層定着させ、一人一人の尊厳がより守られる環境整備(地球環境の保護も含めて)を今後も地道に続けるしかないだろう。」

《本書の構成》

第1章 主観と客観
第2章 観念と実在
第3章 帰納と演繹
第4章 総合と分解
第5章 実体と属性
第6章 原因と結果
第7章 可能と現実
第8章 能動と受動
第9章 理性と感性
第10章 普遍と特殊

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