【7/6 , 2023】有言実行癖 part2 → 意識の流れという概念

有言実行癖について色々考えたわけだが、この方法でむずいポイントがあって、

・有言実行するための有言を忘れてしまう
・有言の内容設定に思考力、一定の時間が必要

というものがあることに気づいた。

有言実行するための有言も習慣化できれば話は早いのだが。これはまぁ解決策としてはシンプルなものがあると思っていて、

・行動でよく目にする部分に、有言実行を想起させるような仕掛けをしておく

ということに尽きるのではないか。

家だったら壁に『有言実行』と書いた紙を貼っておくとか、外出中ならスマホの壁紙をそれにするとか。

ただこの方法の注意点というか、実践方法のコツがあって、その想起させるものが日常に溶け込みすぎると意味をなさなくなる。
そのため、定期的にものを替える必要はあるのかな、と思う。

で、有言実行には思考力と時間が対価になるっていう話だが、まぁこればっかりは慣れなのかなーと。
テンプレート化してしまえば、それらはどちらも問題ではない気がする。
有言実行を継続すれば自然と消失する要素だろう。

でこの話は終了。


次に『意識の流れ』について考えたいと思う。

これもなかなか抽象的で、最近だとマインドフルネスとか言われたりするものになるのだが、自分含め完全なる理解に至っていない人間がほとんどだろう。

自分流の『意識の流れ』に対する理解として、

・意識の流れはある程度自分で制御することができる
・意識の流れも習慣化される。
・意識の流れには、自分で制御できない無意識の領域が存在する
・意識の流れの最大量は決まっているが、平均流量を伸ばすことはできる。
・ほとんどの人間が100%の流量を用いない、というか用いる環境にいない。

というものがある。

意識の流れは要するに何かの行動や思考に対する脳のキャパシティの使用量、およびその使用時間だと思っていい。CPU使用率という形容がピンとくるかもしれない。

例えば飯を食うときの意識の流れを考えてみる。

まず飯を食う、以外のことをしない場合。
この状態だと、流れは全て飯に注がれている。味覚や手のコントロール、もぐもぐ動作、といった要素に分散するが、基本的に意識の流れはまとまっている。

次に飯を食いながらスマホをポチポチする場合はどうだろうか。
飯の他に、スマホから流れてくる情報処理へ流れが向かってしまう。
また、人間は視覚情報の処理に最も脳のキャパが食われるため、スマホをポチポチする時間が長いほど、分散は激しくなる。
この場合、味や手の動きといった行動には、フローがほとんど流れなくなってしまうというのが体験談だ。

で、自分の考えとして、この意識の流れも習慣化される。

要するに、普段から意識の流れをまとめている人は、基本的に流れの強いことができるし、そうでない人は常に意識が分散する状態に陥る、ということだ。

飯食いながらスマホポチポチしている人は、めしを食うのに集中しようとしても、『意識を分散させいのに、分散させる先がない!落ち着かない!』という脳からの伝達が来る。で結局スマホポチポチってわけだ。これは他のことにも表れ、たとえば人と話しているときもポチポチしないと落ち着かない、作業中も定期的にスマホポチポチしないと落ち着かない、ってことになる。

別にこういう状態がダメということではない。ただ、意識をまとめて行動・思考するのが難しくなっちゃうよ、って話だ。

これが流れの強さの話だが、意識の流れには『流れの時間』というのも要素の1つだと思う。
なぜかというと、脳の意識の流れを制御する部分(ここでは回路と呼ぶ)は可塑的であり、普段の流れの状態に応じて変化する。
当然変化というものは、変化に必要なことに費やした時間が長ければ長いほど、変化先に近づくからだ。

で、そうして構成された回路のスペックが、俗にいう集中力というものではないのだろうか。

意識をまとめて流す時間が長い人ほど、脳の回路が『まとめて流す』方向に最適化、つまり1つの物事に集中するように改造されていく。

逆に、意識を分散させる時間が長い人ほど、集中するのが苦手な脳になってしまう。

というのは、まぁこれも哲学ではあるけど、割と大きな的なら得ているのではないだろうか。

現在の10~20代はZ世代と呼ばれている。で、自分もおそらくそれに分類されるのだが、集合の特徴として、とにかくコンテンツを早く消費しようとする、というのがあるらしい。

映画を倍速で見たり、動画サイトでもすごく短い時間の動画を見る傾向があったり…

自分からすると、どちらも興ざめだと思ってしまうのだが、トレンドだから仕方ない。映画倍速で見て何になるんですかね…

で、こうした傾向をさっきの話に当てはめてみると、コンテンツ消費時に意識をまとめて流す時間が減っている、ということになるため、回路の改造のチャンスが減ってしまう。

むしろ、1分ちょっとの動画を連続で見るのは、回路が1分ちょっとで満足できないとダメな方向に向かってしまうのではないだろうか。

また、さらに問題だと思うのが、どうやらこういった1分ちょっとの動画は、基本的にサービスからユーザーに受動的に与えられており、そこにユーザーの意志は介在しない、ということだ。

もう名前を出してしまうが、中国の動画アプリ"TikTok"や、アメリカの動画サイト"YouTube"のショート動画と言われるものだ。
これらは、ユーザーが訪れると、ユーザーの『これが見たいので〇〇と検索して動画を探す』という従来のシステムではなく、サービスから一方的に『あなたが見たいのはこういうのでしょ』という風に動画が再生されるのだ。

つまり、ショート動画サービスによって、意志に関する部分が弱体化されるのではないか。

意識というのは本人の意志のもとに生じるので、そもそも意志がなければ意識の流れはない。ショート動画によって意識をまとめて流すチャンスは激減すると言っていいと思う。

長くなったので続きは次回。

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