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祈りをかたちにする、ということ

この週末は東京へ。
観ておきたかった展覧会のひとつが
「祈りの造形」@日本民藝館。

駒場東大前駅を出るとすぐに駒場東大の門がある。
この地に立つだけで頭がよくなった気がしてしまうのは、おのぼりさん以外の何者でもないんだろうけど、そもそもそういう場のエネルギーがあるからそう感じるんだな、と今回はなぜかそんな確信が生まれた。

春本番と間違えてしまいそうな暖かさの中、大学の敷地内に咲く梅や、研究対象として植えられたであろう小さな花々から小さな春の気分を受けとりながら、民藝館までゆっくり歩く。

久方ぶりに訪れた民藝館は、変わらぬ異彩と威厳を放っており、ここでも梅の花や木蓮かなにかの蕾が控えめに彩りを与えていた。

民藝館ができた頃の熱量がいまだに感じられる気がするのは、激しい時代の移り変わりの中でも確実に伝えていかねばならぬものがある、その使命のバトンが今ここまで脈々と受け継がれ続けているからに他ならない。

建物が現役であるからこそ宿る躍動感みたいなものってあって、これは脚色して出せる類のものではない。
ここはまだ生きてるなぁと感じた。

今回は柳宗悦邸も観ることができた。月に何度か拝観することができるのだ。この家も生きていた。ああして一般公開できるようにするまでに土台から触るレベルの改修がされたそうだけど、ありがちな復元感がちっとも感じられることなく、深い濃淡がそこかしこに漂っていて、ここでも携わった人々の静かで並々ならぬ情熱を感じた。

さてさて。本館に戻り、展示されたひとつひとつを観ていく。黒地に赤文字のさりげない紹介札が、展示されたそのものを思考ではなく五感で愛でることを許してくれる。身体のどこかで起こる感覚とともに、目の前のものたちと対峙する心地よさ。

「用の美」とはよく言ったものだな、とやっぱり思う。用があるからこその美しさ。美術品ではなし得ない私たちの暮らしに沿う美しさ、という普遍の役割。
有り難いなぁ、と思う。

今回の展示の肝は祈りの造形。
神さまやあの世へ渡った人達へ、思いをかたちにして捧げること。沖縄の厨子甕のほか、仏像、しめ飾り、神酒口、初えびすなど。そのどれもが美しく、温かく、親しみがにじみ出ている。

誰にとっても必ずなにかあるであろう、暮らしの中にある祈りのかたち。宗教などでは括れないもっとも個人的な信仰は、素朴にその人の生きるよりどころとなってきたのだよ、とかたちたちが語ってくれているようだった。

それは今の世にもあるもの。今だからこそあるとよいもの。
目に見えないものに繋がる祈りは、私を芯から支えてくれる。

そんなことを確認することができる機会になった。


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