「the girl is insomnia」セルフレビュー
朝焼けと不眠症の少女をモチーフにしたドリームポップ・シューゲイザー。
テーマを一言で言い表すなら、「蘇生」だろうか。
大人になろうとした少女は、しかし社会に迎合できず日に日に彼女らしい輝きを失っていく。
大人になる、って、どういうことなのだろう。
「現実を見る」ことが大人になることだろうか。
現実に目を向けるということは、夢を見るのを止めるということか。
夢を見ないということは、眠らないということか。
眠らず、夢を見ることも、休む暇もなく働き続ける社会の歯車。
しかし、何の疑問も持たず歯車に徹することができるほど、少女は「大人」ではなかった。
カミュ著『異邦人』で、主人公ムルソーは「太陽が眩しかったから」人を殺した。
それはきっと、ムルソーだけの理屈で、他の人間には決して理解できない因果関係なのだろう。
他者から見れば「そんなことで?」と思うようなふとしたことをきっかけに、人は思いがけない行動に出たりする。
ほんの些細なことに背中を押されたりする。
少女はその日見た朝焼けがあまりに綺麗だったから、飛んだ。
窓を開け放ち、揺らめくカーテンの向こう側へと。
メレテー・タナトゥーという言葉がある。
「死の練習」
という意味だそうだ。
ソクラテスは言う。
「哲学はメレテー・タナトゥー(死の練習)である」と。
曰く、肉体は魂の装飾品、何度輪廻転生しても帰ってきてしまう場であり、死ぬことで魂は初めて解放されるのだという。
肉体は魂(真の自己)の仮の宿に過ぎないのだと。
肉体という殻を捨て、真の自己を獲得するための「死」。
現実に寄せて考えてみる。
家庭、学校、職場など、自分がそれまで所属していた場からある日突然ドロップアウトするとする。
その内側にいた人から見れば、あいつは消えた、死んだ、となるかもしれない。
でも本当にそうだろうか?
長い間失われていた「本来の自分」を取り戻すための逃避だったのではないか?
時々こんな想像をする。
今いる世界は僕が見ている夢で、夢から覚めたら違う世界が広がっているのではないか。
ヘッセ著『デミアン』に次のような一節がある。
「鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。
卵は世界だ。
生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない」
夢を見ることも忘れ、終わらない今日に閉じ込められてしまう。
そんな「悪夢」から抜け出すために、殻の外側へ飛び出すために、一つの小さな世界の中で死を選ぶ。
これは、失った朝を取り戻し、もう一度産声を上げるための、生まれ直す少女の物語。
Vo/Gt. タジリシュウヘイ
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