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クリスマス・イブ

日本中の、どんな町にも、
中学生の切ない片思い、
高校生が人生に直面する時間、
そんなドラマがあると思うと、
Googleマップのストリートビューで見る、通学路、
駅、町の賑やかな場所、夕日の美しい場所、桜並木のあるところに、
愛おしさを感じます。

今日はクリスマス・イブ。
大人になった私は、子どもの頃に母がモールで部屋を飾ったり、クリスマスケーキを家族で食べたり、クリスマスプレゼントを親からもらったりする、そんな子どもの頃のわくわくの、お裾分けをもらっているような気がします。

おとなになってからわかることはいろいろあります。
今日、ふと、私が中学3年生の時に他界した父方の祖母のことを思い出しました。祖母は1月に亡くなりましたが、その前の年の秋だったでしょうか、私は入院中の祖母を見舞って、そこで当時夢中だったチューリップの話をしました。祖母はそれをちっともうるさがらずに、いらいらしないで聞いてくれました。私とはそれなりに距離のある祖母と孫の関係でしたが、一時は一緒に暮らしたこともあります。

そんな状態で入院していたときに、中学生の、祖母なんかお構いなしに別のことばかり考えている娘が来て、チューリップがラジオに出るからと病院の屋上に上がってしまったわけです。そんなに話を聞いてもらったことないくらいというくらい聞いてくれたことを、当時自分が感じてたことも思い出しました。

どうです。
こんな大人の振る舞いが、何十年も経って、私に影響を与えるのです。

春馬くんも中学3年生までは、同級生の女子に恋をして、告白をした青春の時間を生きていたのです。もう芸能界で十分やっていたけれど、彼はちゃんと自分のいる場所に夢を馳せることができる男の子だったんだと思います。

自分が日本の、世界の人になにか影響を与えることができたらということを、しっかりと考えてパフォーマンスをする青年になっていましたが、自分の生きていく場所を見つけられないままだったのかもしれません。

彼が30年で生涯を終えたことは私に思いがけず多大な影響を与えていることは否めません。彼の姿はずっと私に問いかけてくるのです。

世界を夢見て弛まず努力をしてきた孤高の存在と見ることもできるかもしれませんが、そうなんだろうか。もっともっと普通の子だったんじゃないかと私は思い続けています。

先日、中島敦の『山月記』の朗読をかけながら家事をしていたのですが、その一節に「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」ということばが妙に耳につきました。自尊心や羞恥心というのは人によって分量も、働く場所も違うのでしょう。

夢破れた主人公が虎になるという話です。
どこでもいい、生きていける場所ならと思います。
そこで幸福を見つける。
生きているうちに、気がつくことがある。
自分を苦しめているものの正体がわかったりする。
そして、その正体にも訳があることが、
みんな訳ありなのだと、
そこに、正しさという物差しでは図ることのできない、人間のありようというものがあるということ。

苦しみの理由の元を正せば、そこには他人が、社会がある。
だけど、そんな姿の見えてこないもののために苦しむことはない。
だれもで社会が重たい。
たしかに、私もそうです。

でも、私ができるのは小さいことです。
いつもそこに戻ることができます。
私が愛する人たちを幸福にすることです。
そして、それはなにかはっきりとわかるような成功譚ではないのです。

じわじわと、あとからわかるようなこと。
そういう贈り物ができたらということです。
彼らの今日の幸福をそっと見守ること、
そして時間差で届く贈り物を、
彼らの生涯に渡り送り続けることです。

あなたが背負っている責任は自分の分だけ。
他を放棄してもいい。
だれかが困ったとしても、
次の形におさまっていくときの、いっときのこと。
自分の人生を全うするのが、自分の分だけの責任。

だれもが幸福を見つけられる世の中でありますように。



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