さなかには気づかないこと

 今日は長女の誕生日。

 彼女の結婚式に使用する写真を選定するのに、しばらく前から写真を選んだりデータにしたりしている。自分のこどもたちが、乳児であったり、幼児であったり、幼稚園児であったり、保育園児であったり、小中高生であったり、大学生であったり、成人していたりで、自分もそういうこどもの親という顔をして生きてきている部分がある。親らしく振る舞う、というような感じだ。

 10年くらい前だったか、もっと前だったかに、意を決してどさどさと詰め込みまくりの写真を整理した。フィルムカメラで撮った写真をプリントしたものがどっさりとあった。現像してプリントしたときの紙袋にマジックで撮影した年と月を入れる作業をした。昨年のひとりぐらしの引っ越しにあたっては、こどもらの写真はまるごと処分などせず持ってきた唯一のものである。

 写真のほかには、Hi8などの動画もたくさんある。これは現在見ることができないが、再生のプレーヤーが中古で安く出回っている。これを買って見てみたい。動画のデータは、ほかに2008年かその前後からちょいちょいPCに保存されているものがある。

 息子が中学1年生くらいか、末娘が小5くらいか。海辺の動画。息子が浜辺の岩場で、たぶん何か生き物を覗き込んでいて、私がそれを堤防の上から撮影している。息子しか映っていない。バックには途切れることのない波の音。私と息子がなにか喋っている。よこで子猫の鳴くような声がする。「・・・さん」「・・あさん」「おかあさん」「おかあさん」「トイレ行きたい」末娘の声。私のすぐそばにいる音量。これに対して、私はなんと答えているかというと・・

「ないよ、トイレ」

 随分と冷たい言い方なのだ。

 「トイレどこにあるの」みたいなことを娘が言い、また私が「トイレないよ、その辺でするしかないよ」とこたえている。

 私って、こういうお母さんだったのか。唖然とする。今だったら、「トイレないから、その辺でちょっとおしっこしとこうか」なのじゃないか、と思うけれど、これ、よく見かける普通のお母さん。普通のお母さんだけど、私は「わー、もっとやさしくしてあげたらいいのに」っていつも思っていた。その時の感じたのと同じ感情が込み上がってくる。

 「おかあさん、トイレ行きたい」って、こどもはいつまで言ってくれたのかな。

 ああ、この頃に戻りたい。もっともっとやさしいお母さんになりたい。こどもらのことを私は可愛がっていたつもりだったんだけど、全然足りてないじゃないか、って、ちょっとした錯覚が今生じているんだろうけれど、この時のこの輝きの時間が私には十分見えていたのだろうかって、思うんだよね。頭ではわかっていたんだよね。もうこの時に、赤ちゃんでも、小さい子でもなくなっているこどもたち。それでも、声変わりもしていない息子や、まだ子猫のような声をだしている末娘との時間は、こどもとの蜜月期。

 いまの私の気持ちは、「切ない」ということになるのではないだろうか。こどもたちはなんとも思っていないのだろうけれど。とりもどせないから切ない。とりもどせないから美しい。これはこのまま抱きしめておく。

 

 


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