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【行った】「あ、共感とかじゃなくて。」@東京都現代美術館

幼稚園に通っていたころ、泣いている子を見つけたら、隣に行って頭を撫でて優しくしてあげましょうという暗黙のルールがあった。一人が泣くとわらわらと園児が周りを取り囲み、「可哀想だね」と言いながら頭を撫で続けるという奇妙な行事だった。なぜその行動を取らねばならないかを聞いてみると「可哀想な子だから優しくしてあげないと」と先生に言われた。泣いていると可哀想な子になるのか、誰も何も知らないくせに何なんだ?と私は人よりも共感嫌いな人間に育った。
だからか、この展示を知ったときに、あ、そうそうそれそれ、と思った。

「共感」というのは、誰かの気持ちや経験などを理解する力のことです。
優しさや思いやりを生み出す、大切な力です。 でも、簡単に共感されると、自分の気持ちを軽く見られたような気が
することもあります。
「分かるでしょ?」と共感を押し付けられて、嫌な気持ちになることもあります。
「共感」されたくない時、したくない時も、あるのです。

「あ、共感とかじゃなくて」展入り口の説明文言より

作品を見る時には、共感できるかどうか、好きか嫌いかを
急いで決めてしまおうとせず、
その相手がどんな人なのか、何を思っているのか、時間をかけて考えてみてください。 共感しないことは相手を否定することではなく、
新しい視点を手に入れて、そこから対話をするチャンスなのです。

同上

とはいえ、大人になればなるほど、自分に引き寄せてものを見る癖がついてしまっている気がする。自分の思考と近いか、自分が理解できるか、または理解できる兆しがあるか、などといった感じである。年齢を重ねるほど、好きなものや心地よいものを選べる自由があるからこそ、いかに効率的にコミュニケーションが取れるかといった基準が選択の中心にあり、その範疇外の対象については他の人に任せてしまおうと思っている気がしている。

今回の展示では、5名のアーティストによる、第三者がたかが数十分向き合っただけでは分からない(当たり前ですね)作品が展示されていた。
作品を懸命に"理解"しようとしても、相手は不在なので、その過程は誰にも伝わらない。相手を理解することは不可能で、理解したつもりになるのは傲慢であるという以前の考えに加えて、自分の狭すぎる視界の範囲外にたくさんの人がいるということを想像し合うことが大切なのかなという思いを持った。また、これまで自分が持っていた考えは、人を傷つけたくないあまりに人を拒絶しているなと改めて思ったり。



以下好きだった作品。(の説明)

孤独を感じたときに居場所を求めるはずだ、というのは正論だが、一体どれだけの人がその用意された居場所という公共空間に辿り着けるのだろうか、とは多々思う。困ったら助けを呼べと言われても、助けを呼ぶまでに必要なステップはどれほどあるかを想像する。なぜ困っている人が自ら歩いていく前提なのだろうか、という疑問にひとつの案を提示してくれる試みだった。

壁に貼られた付箋には、それぞれが思う「共感」についての考えが書かれていました。その中で子どもの筆跡で書かれた二つのメッセージが自分には刺さった。

"「共感」そういえば友だちときょう感できているのかな"

"しょうらいかがくしゃになりたい    やなぎさわしょう"

"空をながめる野原"より

2023年11月5日(日)まで。

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