今日という日の花を摘め
古代ローマの詩人の詩の一節に由来する言葉である。原文のラテン語では"Carpe Diem"と記載される。こちらのほうが有名かもしれない。一日を花に例え、「今を摘む」「今を生きる」という意味を持っている。
私は「今を生きる」という言葉には大きく分けて二つの意味がありそうだと思っている。一つは「今、この瞬間に集中する」という意味。マインドフルネスや瞑想がこれに近い。五感をはたらかせ、自分と「いま」を繋げる生き方である。もう一つは、「後先考えずに生きる」という意味である。他者から「何のためにやってるの?」「今しか見てないよね〜」と言われたときは大抵こちらの意味であると思っている。過去も未来も考えず、今、自分が楽しい、やりたいと思ったことを実行することなどが挙げられる。そしてこちらはおそらく、ネガティブな意味を含む。
私の生き方は、どちらかというと二つ目の生き方に近い。むしろ、「今」ですらなく過去や別次元に身を置いていることすらある。
例えば、自分が通勤に使う路線には「花小金井駅」という駅がある。この駅は、他と比べてホームの幅がかなり広い。調べてみると、かつてこの駅の周辺にはたくさんの桜の木が植えてあり、人々が満開の桜を一目見ようと押し寄せたそうだ。今では駅の周りに桜の木はないし、乗降者もそれほど多くはない。ただ、やけに幅の広いホームを見ては、過去にホームにまで吹かれて飛んできたであろう無数の花びらや、春の到来に心浮かれた人々の姿を想像する。跡形もなくなった風景や場所の記憶と繋がり、自分だけの世界を作り出すのである。
本を読んだり、人と電話をすることも「今」から離れる過ごし方である。物語を読めば、どこにいても一瞬で違う世界線に遷移できるし、電話は相手との物理的な距離感を埋める。道をぼーっと歩けば、地面に落ちているものや飛んでいる鳥が気になるけれど、人と電話しながら歩けば、一瞬で目的地に着く。これは一種の瞬間移動であり、「今を生きる」こととはだいぶ離れた意味合いを持つと思っている。
ところで「今」は常に自分についてまわっているものだ。過去を想起しても、本を読んでも、通話をしても、そこにいるのは自分自身である。今日という日を摘んでも、記憶のある限り明日と今日には一連の繋がりがある。1日1日の花が束になったとき、それは何になっているのだろうか?未来にある花の束を楽しみにしながら、私は今日も花を摘む。
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