日本の岐路
新型コロナにより、経済が止まっています。
働くことは生きること。政府によって働くことを止めるよう要請されるも、所得の補償がされません。
所得がなければ、衣食住を維持することができません。食べ物が手に入らなければ人は死んでしまいます。
そう、政府の言っていることは、ギリギリで生活している人にとっては死を要請していることと同じなのです。
こんなことを国民に要請してしまう今の政府の中枢にいる人たちは極めて特殊な人間です。庶民の生活や、働きがどんなものかまるで想像できていないのでしょう。
まるで貴族です。忘れてはならないのは主権者は国民だということ。
国会議員は選挙で選ばれた国民の代表であり、国民一人一人のくらしに思いを馳せ、国民が豊かに安心して生活を営めるように政治を行う義務があるのです。
国民により添えない思い上がった貴族のような人間に政治を任せていては私達は永遠に檻から出られないでしょう。
貴族たちは国民一人の苦しみや恐怖を決して想像していません。
人は一人では生きていけない。ちっぽけな存在である。自己は全体の一部分である。「自(己)」「(部)分」→「自分」
水道、電気、バスや鉄道、道路、電波、食料、教育、医療、建設、衣料、電気機器、生活用品、道具、私達がこの社会で生きることができるのは、ほとんどすべて他の誰かが働いてくれているおかげです。
自力は0.1%、他力99.9%。
他者は欠かせない仲間です。他者の苦しみは自分の苦しみ、他者の喜びは自分の喜び、この社会はみんなとの共生でできています。
いますぐ他の人と競う、他の人と比べるという生き方を止めた方がいいのではないでしょうか。
いや、止めなくてはいけない。
他人の行いを責め、罵り、怒っている場合ではありません。その対象の相手は自分がこの社会で生きるために欠かせない存在の一人なのです。
命よりも有り難がって求めているお金(貨幣)は、現代の管理通貨制度では、国家が作っているデータでしかありません。お札として紙に印刷されたものは全体の10分の1程度です。
過度なインフレにならない程度なら100兆、200兆と発行することができます。
お金を惜しんで国民の命を救わないという今の政府の態度は「国家的ネグレクト」と言えます。
本質的には、お金は貸し借りの記録です。
政府が国債という形で借り、公共に資する事業のために使うことで、世の中に流通していきます。逆に政府が徴税により回収すれば、その分だけ世の中から消えてしいます。
税金が財源というのは実は正しくありません。なぜなら予算執行が先で、確定申告後に徴税されるという順番からもわかるでしょう。
「お金は天下の回りもの」とは実によくできた言葉です。
実社会の中でどれだけ回せるかが重要なのです。
貯め込んだり、独占したりすればその分、みんなの経済活動が縮小してしまいます。
格差が拡大していけばいくほど、景気が悪くなるのです。
今、政府による自粛要請によって私達の働きが制限されている状況では、物もお金も不足しています。
私達みんなの働きによって生み出される「生産力」こそが経済の源泉であり、それを潤滑に回すための「お金」が必要です。
働くことは生きること。みんなのために社会を回さなければ、人は生きてはいけません。
政府がこのまま不作為を続け、中小企業、個人事業主を廃業に追い込めば、ウイルス騒ぎが終息したとしても、今までのような暮らしができないのです。
最も速く有効な解決策は100、200兆円の国債発行による日本全体としての国民救済策です。
しかしながら、この解決策が今の政府中枢の人間には期待できない以上、私達はもっと小さな共同体で知恵を出し合って生きていくことを考えないと助からないところに来ています。
お互いの喜びや悲しみが共感し合え、共に助け合って生きていける小さな共同体単位です。
お金も地域通貨やお米などを活用して、「円」以外で回すことも必要だと思います。
具体的に何ができるのか?
ウイルス騒ぎの被害を抑えつつ、みんなのために出来ることを一人一人が考えていかなければならない重大な岐路に立たされている気がします。
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