フーコー,サックス,セルトー,反権力

 フーコーは我々の日常の中の隅々に規範的権力を発生させ,それらに基づく秩序を内面化させる「装置」があることを示した.例えば,検査と統計による標準化でわれわれは「何かが異常であるか,そうではないか」また自分たちのランキングに取り憑かれるようになっている.

 そしてサックスは,赤ちゃん,子供,先生,大人といった我々が用いる標準化されたカテゴリーが我々の行動を制約し,行為の資源となる装置であることを示した.我々は人々の行為をカテゴリーから説明し,それには権利と義務が紐づいている.例えば,赤ちゃんを抱く女性を見て「母親が育児をしている」と我々は理解するだろうし,「黙りなさい」と他人に言われることは妥当ではないが,教師から言われる場合は違った行為として理解するだろう.逆に言えば教師であるからこそ「指導」という行為が可能となるのだ.

知識は権力であり,我々は知識を生きている.

しかし,我々がただ単に知識に支配されるだけの存在ではないことをセルトーが見出した.我々は知識を正当にではなく,自分たち流に都合よく解釈し作り出し,「密猟」するのだ.そうやって権力に争うのだ.

「彼氏」「彼女」あるいは「友達」というカテゴリーに結びついたさまざま権利と義務に対して「セフレ」というカテゴリーに争うことができるのだ.

つまり,セフレの実践こそが反権力の実践なのだ.




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?