マリアージュ

 有名な「猿の不公平実験」というのがあり,進化の早い段階で我々が不公平を嫌う性質を獲得したのでは?という話がある.二匹がそれぞれ同じ課題をこなしたのに,片方がぶどうをもらえて,きゅうりしかももらえなかった猿がキレるというかわいそうな実験ですね.

 雑な歴史観からなんですけども,難しい思想や教条などではなく「平等になろうぜ!」つって,ろくに教育も受けてないだろう昔のフランス民衆を革命に動員させるだけのパワーがあるような気がします.やはり,人間の平等への愛には.

 じゃあなんで,世の中が平等になれないのかといえば,大きな目で社会を見た時に「ヒエラルキーのパラドックス」というのがあるらしく,自分の努力次第で階級移動が可能だと考えると階級を維持する,という話があるのでそれかもしれませんね.

 もっと小さな単位,人間を対象にした話にすると,我々の認知の一般的な性質として「公正世界仮説」というのが備わっており,世界は公正であるから,何か良いことが起きたらそれは自分の行いの結果であると考えたりするらしいです.つまり,我々の因果的な推論にこびりついてるらしいです.法哲学のケルゼンがラテン語の歴史を紐解き,「必然」ということば「分前を得る」という動詞系からきていて,その背景に「悪が悪を生み,善が善を産む」という価値観があるということを指摘していたりもします.

 で,この認知って面白いですが,何らかの「結果」への解釈において働く推論形態なんですよね.つまり,どんな現状であれ,それを納得するために,何らかが「善」or「悪」だった結果であるとして捉えちゃうわけですね.公正であって欲しいという気持ち,そもそも何か善だとか悪だとか断じるところがないと出ねーだろって普通の話ではありますが.

 しかし,もっと細かい単位,特定の個人がいい待遇をうける階級になれるかはその個人の努力以外がでかいという事実はまともに生きてたら,痛いほどしっちゃいますよね.なのになんで「努力すれば報われる,階級移動できる」というような公正を錯覚してしまうかと言えば,やはり我々が,「結果」を「善or悪」の回路で捉えてしまうことから逃げられないからでしょうかね.

 なので,もうやめましょう.てきトーですが,善でいたいから不平等を許容するんですよ.いやまぁ,平等に個人的な思い入れはありませんが.とにかくもう善悪はやめよう.善悪.次の人の進化は善悪の退化しかありませんて.やめましょう善悪.ただあろう2022

 

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