学校に行こう

  映画「下妻物語」をアマゾンで見ました.よかったです.そろそろ見放題からなくなるっぽいのでこの機会にぜひ.で,この下妻物語の主要人物が暴走族ということで,ちょっと暴走族に興味が出まして,「不良物語という名の搾取構造」(松本隆志, 2009)という論文や,大村英昭(1985)の書評(https://doi.org/10.20621/jjscrim.10.0_187)を読んだり,千葉のブラックエンペラーを取材した動画(https://youtu.be/_GY58uITogc)を見たりしました.で,暴走族ってインターネット文化の先駆けなのでは?と思い,そのことです.

  動画の13分~14分のあたりで暴走族の魅力について語られていて,「自分と同じような人で集まっている,落ちこぼれだとか,おかしいやつとか」「派手ってのもあるけど,連帯感ってのも.頭がいいやつらにはできないことをやれるっていう」というのが印象に残りました.やはり世間での落ちこぼれというか,社会のアウトサイダーとしてアイデンティティで繋がってたみたいで,一時期,インターネットに障害名などを旗にして「社会的ではない自分たち」というアイデンティティの連帯があったことなどを思い出されます.

 そして,暴走族といえば爆音がなるように違法改造し,さらに独特の装飾がなされて「族車」に乗るという特徴があるわけですが,動画の15分~16分で「走ることの魅力」について「目立つこと」「みんなが見ること,めだとう精神」というようなことを語られています.落ちこぼれというアイデンティティを全面に出して「不良」を名乗り,でありながらも目立ちたい,承認されたい,という気持ちが動機というも,まぁ「非モテ」や「無能さ」などお手軽な弱みを都合よくひけらかして承認を得るようなところに通じるかもしれませんね.

 インターネットの我々と暴走族ってあまり違いがないかもな,と親近感を感じるのは,なぜだか人が「何者かであることをディスプレイする」ことに強く動機づけられているからで,ゴフマンという社会学者が自己提示としての「演技」という観点から,社会の構造を分析しようとしたことに改めて感心するところでした.

  何者かであることの演技について言えば,最近ようやく映画「何者」みたところでもありました.「私は〇〇である」というアイデンティティを持てない人たちが,路上で暴走を演ずるという選択がないために,「〇〇らしく」あるための振る舞いをインターネットで過剰にディスプレイしたり、「少なくとも××ではない」をディスプレイするためにインターネットで過剰に××的な人を中傷したり、あるいは自前の物語世界の中だけの誰でいるために他者にディスプレイしない、など様々に努力を要されるという涙なしでは見れない「話」を,「演劇的」な演出で見せるいい作品でした.

 話がそれましたが,暴走族の論文では,それにしてもなぜ恐喝されるなど様々に厳しい搾取のある共同体に参加するのか?という問いを解こうとしていて面白かったです.端的に言ってしまえば,過酷な環境にいることに男らしさやタフネス性という価値が見出される「男を磨き」「自己鍛錬」という物語に自らを没入させ,「将来のための人生経験」を得るために参加しているのでは?という話でした.いやぁ,「将来の自分への投資」のために群れて反社に搾取されようという暴走族は,オンラインサロンの先駆けであったかもしれませんね.反学校を掲げるところも似てますよね.

  映画「何者」の人物たちも学業不振の方々でしたが,暴走もインターネットもやめて,学校に行き,学校で何者かになるのが一番ヘルシーなのではないかと考えさせられた次第でした.はいおわり

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