植木雅俊『差別の超克』

 もともと日本の中世史や思想、仏教美術に興味があり、仏教はこれらを理解するうえで避けては通れないと考え、2019年ごろから仏教の本を読み始めた。1年ちょっとで我ながらかなり読んだと思う。忘備録も兼ねて、読んだ本の中から特に勉強になったり影響をうけたりした本を何冊か取り上げたいと思う。  

初回は植木雅俊『差別の超克』(講談社学術文庫)。自分が仏教思想の本を読むきっかけになった一冊である。もともと講談社学術文庫には強い思い入れがあって、仏教の本を読みたいと思っていた時にちょうど発売されたので手に取った。前の職場で上手くいかず、うつ病になりかけていた時に読んだ。著者が『法華経』信解品の長者窮子の譬えを読んでうつ病を乗り越えたという一節が強く心に残っている。
本書の内容は原始仏教と大乗仏教における男女平等、人間主義である。

「女性に対する男性優位の二者択一論に対して、女性優位の二者択一論を主張することは、同じものの裏表の関係であって、不毛の議論を繰り返すだけで何ら解決にはならない。“男であるから”とか、“女であるから”とかという二元相対的立場に立つのではなく、“人間として何をするか”という視点に立ったとき、それぞれの違いを認めつつも、その違いを生かすという視点に変わるのではないか。その意味では、本来の仏教の目指す女性の地位向上は、フェミニズムや、フェミニストという言い方よりも、ヒューマニズムや、ヒューマニストという立場に立っていると言ったほうが正確である」(p.250)

「小乗仏教は、出家中心主義、男性中心主義であった。小乗仏教の言う声聞、独覚、菩薩、仏には女性や在家は含まれていないのである。それに対して、大乗仏教が打ち出した菩薩乗には女性も在家も含まれていた。しかしこの段階では、小乗が在家や女性を排除するという、声聞の立場からの差別思想であるのに対して、大乗は二乗を排除するという意味で菩薩の立場からの差別思想であることに変わりはなかった。何かを差別することによって平等を唱えることは、自己矛盾であり、必ず破綻をきたす。菩薩によって女性の平等を唱えたといっても、何かの口実を設けて再び軽視されるようになる余地を残すことになる。絶対的な平等を提示しなければならない。それが、一仏乗の思想であった」(p.405~406)

要約 

 女性が蔑視されたインド社会において、女性も悟れる、として女性差別のみならず僧団内のカースト制を否定した原始仏教が釈迦の死後、バラモン社会の思想や教団の権威化によって徐々に変容し、僧院に籠って研鑽と修行に励んだ僧侶と表裏の関係で女性や在家信徒は仏教から排除されていった。
 紀元前後になると部派仏教の中から大乗仏教が興隆し、たとえば『維摩経』観衆生品における天女と舎利弗との問答や『法華経』提婆達多品の龍女成仏、もう少し下った時代の『勝鬘経』など「釈尊に帰れというルネサンス運動」のもと「だれもが仏になれる」という思想の中で女性の成仏をとくに説いた経典があらわれる。しかし、初期の大乗仏教は『維摩経』などの仏典に摩訶迦葉ら声聞の言葉として「我らは(仏という芽が出ない)“炒れる種子”」であると言わせているように、「だれもが仏になれる」という思想の中で小乗の悟りを求める人びとの成仏は否定された。
 一仏乗を説く『法華経』はそのような男/女、菩薩乗/二乗/、出家/在家といった対立概念を止揚し、あらゆる人々の平等を唱えた思想であった。
提婆達多品の「転男成女」は女性蔑視が当然であって、法師品に見られるように一仏乗の教えを説くものが迫害されたような当時の社会情勢で女人成仏を明かすための方便であり、決して女性の成仏を否定したわけではなかった、というのは目から鱗であった。
 一句たりともゆるがせにしないサンスクリット版『法華経』の語釈から、「常不軽菩薩」はその品の物語の展開を先取りした巧みな掛詞であったこと、日本でも権一三実論争など解釈を巡って大きな争点となった「無二亦無三」が単に「唯一乗」を強調するための慣用表現であったことを明らかにし、法華経における「善男子・善女人」や「法師」という呼びかけかたに対立を止揚、昇華した法華経の平等思想を見いだす。

読書案内

同じ著者の『100分de名著 法華経』はこの本をもとに法華経の思想をダイジェスト的に解説した本。価格的にも手に取りやすく、法華経の思想に興味がある方はまずこちらを読んでみると良いと思う。
同『サンスクリット版縮約 法華経』は文庫本でサンスクリット版の法華経全品を繰り返しや偈頌を大胆に省略しながら一冊にまとめた本。一品ごとに挟まる解説が実にわかりやすい。
さらに詳しく知りたいならば同『梵漢和対照・現代語訳法華経』(上下巻)や同『サンスクリット原典現代語訳 法華経』(上下巻)があるが、値段が値段でまだ買えていない。サンスクリット現代語訳における種々の誤りが指摘されているが、手頃に漢訳やサンスクリット語現代語訳も含めて『法華経』原文(というと語弊があるが、便宜上)を読みたいならば岩波文庫『法華経』(上中下巻)がある。古本屋に行けばたいてい3冊500円くらいで売っている。
同じ植木雅俊先生の『サンスクリット版全訳 維摩経』も「空」思想を説く逆説的な表現や突飛な場面が多い維摩経をていねいな解説とともに読める一冊。
田村芳朗『法華経 真理・生命・実践』(中公新書)は多少古いが、法華経の思想的特色を真理(法)・人格(仏)・人間(菩薩)とまとめ、大乗仏教の成立から天台思想の展開、日蓮の法華思想に影響を受けた近代の日蓮主義者の思想・運動まで幅広く取り上げた一冊。

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