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記事28:ひとつになるとき

毎年、最大規模の台風がやってくるようになった。
美味しさの上限を毎年更新するキャッチフレーズをつける、あのワインみたいだ。

僕は本格的な台風の被害にあったことはなく、せいぜい電車の運行が乱れたとか、
傘をさしていたけど体の前面がびしょ濡れで通勤した程度だ。
被害にあっている地域は本当に大変だと思う。

遠く離れた地域のことを身近な問題のように共感、心配できる。
こういう時、中学の社会の授業で習った「ナショナリズム」のことを思い出すのだ。
学校で勉強したことを思い出すのは、だいたいは中学校時代のことだ。高校時代の授業の記憶の方が近いはずなのに、すっぽりと抜け落ちている。

ナショナリズムという言葉の持つ本来の意味は、正直ちゃんと分かっていない。
けど、「ひとつの国への所属意識」とか同族意識、みたいなイメージだ。
自分の身近なところ以外の情報を、同じ国内の出来事だと認識すること。
近代になって人々の意識に根付いたものだ。って先生が言ってた。

日本国内が藩で区切られていた頃には、よその藩の出来事は他人事だった。
新聞の登場によるところが大きかった、とか授業では言ってた気がするが、
今や国内の出来事だけに収まらない考え方になっている。

たしかに言われないと気付かないレベルで、意識に浸透している。
九州で台風の被害が大きくても、関東住みの僕には本当は「関係ない」のだ。

北海道でガス爆発が起きようが、仙台で通り魔殺人が起きようが
本来は「ふーん」のはずだ。
それが遠く離れたところから、「事故を起こした企業の責任はどうなるんだ!」とか「警察は何をやってるんだ!」とか言う人がたくさんいる。

自分にとってゆかりのある場所なら、より身近に感じる。
海外でも、たとえばアメリカや中国のことは少し自分事として感じることもあるかもしれない。
でも例えばジンバブエとか、マリとか、ドセリアで起きた事ならよほどの大事件ではないと。
ドセリアに関しては架空の国だし。

というわけで、ナショナリズムが持つ本来の意味は理解できてるが怪しいが(本日2回目)、ニュースを見ていると上述のようなことをちょくちょく考える。
いつしかまた、「自分のところじゃないし関係ない」という世の中になっていくかもしれない。

大森靖子『魔法が使えないなら死にたい』

このCDとの出会いは柏のタワレコだったと思う。正確に言うと上のMVと出会い、気になりすぎてタワレコ に買いにいったのだ。
このあとに出したアルバム、『絶対少女』はかなりの回数聞き込んだが、衝撃度でいうとやっぱり『魔法が使えないなら死にたい』に勝るものはない。

収録されたどの曲もヒリヒリと尖っている。ほんとに近いうち自殺するんじゃないかと思った。大森靖子のライブとはなかなか縁がなくて、クアトロのワンマンは仕事の都合で行けず、サンプラザはチケットとった後に札幌への転勤が決まり行けず、その後も転勤前にチケットをとってライブにいけないことが1回あった。
去年仙台でようやく見れたんだっけ。魔法使いだった。

いろいろあるけど、追い続けようと思う。

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