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この頃 あたまに浮かんでいること。

この頃、よくあたまに浮かんでいることは『出来る自分』『出来てない(出来ない)自分』について。

それと 私たち人間にとっていちばん難しい考えは『物事は実に簡単だというアイデアを受け入れること』この2つについて、ぼんやりと思考している。

一時期よく心屋仁之助(Jin 佐伯仁志)さんのホントの自分を見つけるラジオをよく聴いていた。あらためて最近聴き始めたのだがやっぱり好い!

自分は心屋の考え方のどこが好きなんだろうか?新しいモノの見方、視点を与えてくれるところ。考えを受け入れるときに抵抗感を感じることもあるけれど 抵抗することを止めると、やっぱり心がラクになるところだろうか。

はじめの出来る自分 出来ない自分の話に戻ると、わたしは出来ない自分を見せるのが嫌な人間だ。出来ないということに対して まだ抵抗感を感じている。

とは言え、実際のところ圧倒的に出来ないところの方が多いし、ホントのところ、出来ないことを出来るようになりたいか?と自分の心に問うと、対して出来るようになりたいとは思っていないようだ。

例えば 自分は時間に間に合わせると言うことがとても苦手だ。時間管理が出来ない。出来ないので『頑張って』やるのだが、頑張ってやるもんだから、その時点でかなり消耗している。

時間の話は例えばの話だけど 苦手なこと 出来ないけど頑張れば出来ることを頑張ってしまうのは 出来ないと思われたくないからだ。

あるいは怒られたくないからだと思う。

誰に怒られたくないのか?

誰を悲しませたくないのか?

それは、

お母さんを悲しませたくない。

お母さんを苦しませたくない。

ホントは不幸じゃない、『あの人』を苦しませたくない、悲しませたくないから、無理して頑張って、自分らしくないことをやり方をするけど、やっぱりそれは自分じゃないから苦しいのだ。

お母さんはああ見えて実は幸せで

わたしはお母さんが苦しんでいても(勝手にそう見てるだけ)

不幸そうにしていても(そう見えているだけ)

放っておけば いいんだろうな。

放っておくことに罪悪感を感じるているのは きっと罪悪感を感じたいから 感じてるんだろう。

罪悪感を感じることが繋がりだと 勘違いしてるのかも知れないし よく分からないけど必要ない罪悪感だということはわかっている。

わたしは必要ない罪悪感をあちこちで 勝手に感じては苦しむというゲームを繰り返してる。

なんで誰かが不幸だと駄目なんだろうね?

不幸になる権利だってある訳じゃん。

不幸がキモチいいって感じる時もあるじゃん。

ないかな?

わたしはあるけどなぁ。

不幸な自分も好きだよ。

ただ それに浸り続けてると なんだか自分がホントに好きなものも よく分からなくなってきたんだ。

こういうことを書きながら わたしもホントは出来るんだー!って騒ぎ出す自分もいるんだけどね。出来ないところは諦めて 自分が出来るところに集中した方が人生ラクな氣がするよ。

今度またカンタンについても書こうかな。
それと心のことも もっと書いてここに吐き出してもいいのかも知れないなぁ…と思いました。まる。

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