一つの表現に宿る力
今、GEZANのボーカリスト、マヒトゥー・ザ・ピーポーのエッセー、「ひかりぼっち」を読んでいる。
GEZANを認識したのは、2019年初めのころに「狂(KLUE)」がリリースされ、音楽評論系ユーチューバーのみのミュージックに取り上げられているのを見かけた時だ。名前こそ何度か見かけていたが、ずっと興味は持っていなかった。そしてみの氏が動画でフィーチャーしていた際も聞かなかった。時間が流れて躍ってばかりの国を聴くようになり、またまたYoutubeでライブ動画を見ていると、全感覚祭に行きついた。GEZANが主催の投げ銭型のフェスだ。
ここまでくればGEZANはもう自分のすぐ横にまで来ている。そこで見た忘炎のライブ映像。アイコニックなシャウトの直後、マヒトゥーは客に背を向けたまま、ふっと体の力が抜け落ち、お尻からストン、と地面についてしまう。観客からは何が起こったかわからないだろうが、そこに捉えられていたのは紛れもなく、意識が飛んでいる瞬間だった。そこまで音楽に、このフェスに、観客へ向けて力を振り絞っているのか。そんな瞬間を目撃できることなど、そう多くはない。
これを見てから普段は聞かないジャンルであるGEZANに強く惹かれていった。惹かれていく自分を否定したくて文句を言ったこともある。「怖い」と。その感情には嘘はない。そこまで力を発している人間を見て、そう思わないほうがおかしいのかもしれない。GEZANの発する人に恐れを与えるオーラ。これがより一層人を引き付けるのかもしれない。もう私はすっかり虜になっている。
せっかくGEZANの記事を書くのだから、と今も狂を流している。私はBluetoothスピーカーで聞いているよ。気楽に。
冒頭の話に戻ろう。「ひかりぼっち」のはなしだ。
大体半分ほど読み進んだのだが、非常に惹かれる表現があった。
”走るのに必死でコップからこぼしてしまった大切な時間、その水を不意に浴びて育った花。”
ある一点に向かって走っているのに夢中で、無駄に過ごしてしまった時間。そしてその過ごした時間が生んだ偶然の産物。例えば、旅行を楽しむことに夢中で、旅先で本来の行程にはなかったが、たまたま立ち寄った楽器店で運命的な出会いがあった、なんてことかもしれない。この例えは非常に短い期間での例えだ。2,3日から1週間といったところか。正直ちっぽけだ。こんなことに、”運命の出会い”なんて大げさだし、格好悪い。しかし、人生スパンで考えれば、その”育った花”は友人であるかもしれないし、自分が身に着けた力かもしれない。それには運命を感じてもいいのではないか。その花が何であるかはわからないし人による差が大きいが、なんにせよこの表現は私をこの本に強く縛り付けた。
本を読んでいる時私は本に記されている表現や考え、出来事なんかを自分の人生と照らし合わせて読んでいる。この一文を読んだ時、自分にとって花は何になるのかを考えた。正直今出る答えは、たった20年しか生きていない、何も成し遂げていない人間の安直な表現に過ぎない。生きることに精一杯とでもいえるちっぽけな人間の答え。それでも出てきたのは、自分の人生における音楽と友の関係性だ。
私は特段音楽に精通しているわけでも、テクニカルであったりエモーショナルな演奏ができる力を持っているわけでもないが、音楽を欠いて生きていくことはできないほど執心している。今いる友とのつながりには音楽を欠かすことができない。軽音サークルで出会った人が多いから、と言ってしまってはそれで終わりだが、生活を音楽に乗せて共有できる友人がいることで幸せを感じることが多くある。たわいのない会話に出てくるバンド名、一緒に演奏することを通じて感じる一体感。それらは替えの利かないものだ。私が自分が幸せを感じるための手段の一つが音楽だ。改めて認識できたことで、これからは友と音楽により一層感謝していける。大切にできる。価値を感じる。
そんなことを考えさせてくれたこの一文、心に刻み込んでおこうと思う。
みのミュージック 2020年オススメの邦楽紹介https://youtu.be/qY5nZyM_QLk
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DAX -Space Shower Digital Archives X- SHIBUYA全感覚祭 part.2
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