見出し画像

この世界で生きること

なんか、良くて、難しいnoteを読んだので、この世界で生きることは、って、考えている。

普段はこんなに丁寧に考えて生きていないし、多分毎日100回くらい人を傷つけている。わたし。

ぜんぶ曖昧で抽象的な文章になった。けど、伝わる人に伝わってほしいなと思って書いたので、よかったら読んでほしい。

※画像お借りしました。

---

男女

昔は、当たり前のように男らしさ、女らしさ、と言われて、その性別らしい生き方の模範があった。模範、という言葉は正しくは無いが。それでも、今は、それがダメだと言われて、少しずつ改善されている、とされている。でも、何をもって変わったと言うのだろう。外側を一生懸命変えても、内側が変わらなければ、何も変わらない。

わたしは、男女差は、絶対にあると思っている。体つきの話だけではない。考え方とか、ものの見方とかに、ある程度男の子と女の子で、違いがあると思う。傾向とか、確率のはなし。ただ、そのフレームを個人に無理に押し付けることが悪くて、おかしい。確率的に「そう」だから、あなた個人も「そう」でしょ?って考え、おかしいでしょう。普通に考えれば、当たり前に気付く。

---

容姿、ルッキズム

私は、容姿にコンプレックスがある。それは、虐められた過去があるとか、好きな人に容姿の悪口を言われたとか、そういったきっかけがあったわけではない。じわじわ感じる違いに、心が傷つけられてしまった。よく考えれば、私は私のくりくりとした目は好きだし、口の形がキュートで気に入っている。でも、そんな自分の好きなところが、よく考えなければ出てこない。私の思う私の好きが、見えない何かによって、隠されてしまっている。気がする。

最近、世界が可愛いの見本市みたいになってしまっていると思う。良い意味ではない。ティックトックとかのSNSで、簡単に顔が晒されている。そして、もっと簡単に、何も知らない人の手で、その見かけが評価される。他者評価の他者がほんものの他人なのだ。

「顔面偏差値が高い」「国宝級の」「美人すぎる」...。褒めているはずの言葉に、すごく違和感を覚えるし、なんだか泣きたくなる。素敵な容姿である、ということは素敵なことだし、それを褒めることも良いことだけど、そのポジティブなはずの言葉が、発する人に軽んじられると、突然暴力的なものになる。その言葉たちは、物理的に軽い気がする。独りよがりで、優しさも愛も何も無い。

---

大学という入口

顕著なのは大学からで、大学から、突然、「男」と「女」として世界に放り出された。友達は前言っていた。「大学になったら、付き合っている、という言葉に暗にセックスをしたという事実がほとんど絶対にあって、気持ち悪い。」たしかにそうだな、と思った。彼女の感じた気味悪さは、大学の世界の中に蔓延っていると思う。別に、恋愛に限った話ではない。

わたしは大学に入ってびっくりした。高校の男の子の同級生は、私のことを下の名前でなんて呼ばなかったのに、大学で知り合う人で、私のことを苗字で呼ぶ人はひとりもいない。思春期が過ぎたから、なんて雑な言い訳で済まされたくない。みんながそうしてるから、大学からはそんなもんだよね、って、風潮が、溢れて、自我のないわたしたちを飲み込む。私も、飲み込まれている。

---

「飲み会」という怪物

それぞれに、上手い生き方というものがある。それは、初対面のサークルの飲み会とか、そういった剥き出しの場所で、一番分かる。何が「それぞれ」の基準なのかは、上手く言えないけれど、上手く言葉にしてしまったら、はっきりと悲しさが押し寄せてくると思う。私は、飲み会でただにこにこするだけでは、生きてはいけない。たまに大きな声で笑って賑やかし、同調し、空間が、大学生の元気な飲み会として成立するように、バランスを取る。

これはいろんなところで起こる悲しい事故で、でもその事故がみんなのこころで内々に処理されるから、ずっと、その虚しい空間が続く。小さな棘と、ガラスが割れるくらいの衝撃なら、みんな小さな棘を選ぶけれど、その棘が案外鋭利なことは、ふと、ひとりきりの夜とかに、気付く。

---


生き方を誰にも強要はされていないのに、なんとなく、そんな気がして、って、求められるように動いて、わたしを、私の性を、「演じている」。そんな感じ。



ライターになりたい未来