西日本新聞100年史に見る新聞の勃興と地方新聞

 明治新政府は慶応四(1816)年三月に「太政官日誌」を発行して・民心の向かうべきところを指示した.一方、幕府方も同じ二月に會謬社(蕃書調所が洋書調所となり、さらに改称したもの)の柳河春三らは「中外新聞」を発刊し、幕府弁備護の筆を振るった。この両紙発刊をきっかけに、江戸、横浜に佐幕派、京都、大阪に新政府派の新聞が続々と出現、当時の新聞記事によると、その数は三十種にのぼったとある。この年をもって、わが国の新聞創生期とみなすことができよう。

 武力では着々戦果を収めた新政府も、言論報道戦においては、新知識人の多い幕府派に圧倒され、江戸城入城後の六月八日には太政官布告をもって、新聞の官許発行制の徹底を打ちだした。

 「崎陽雑報」発刊(本木昌造による日本初の地方紙、慶応四(1868)年8月長崎で発行)の動機の一つは、振遠隊(1864年結成、長崎の治安維持を目的とし、下って明治元年には奥羽出兵を果たす。)の動静報遵にあったとも考えられる。戦争ニュース、しかも肉親や縁戚、知人がそれにかかわりをもつとき、人々のニュースへの関心はもっとも強くなるものである。最初の地方新聞「崎陽雑報」が報道新聞として誕生したことは、中央と地方とでは新聞の発生形態が、必ずしも同一でないことを示唆している。

 福岡では民間の新聞縦覧所として、明治五(1872)年ごろ に、博多上浜口町(のち中島町に移転)に国産蝋燭を販売していた藤井孫次郎が、店舗の片隅に東京紙を備えて、無料で一般に閲覧させた記録がある。藤井が縦覧所を開設した動機は、同年二月ごろ商用で東京に滞在中、たまたま「東京日日新聞」の発刊(二月二一日創刊)に出会い、新聞の効用をつぶさに実感したことによる。新聞の魅力にとりつかれた藤井は、帰福後東京の新聞を取り寄せて知己に配り、また地元一般の新聞への関心を高めるために、自ら新聞縦覧所を設け、町の各所に案内のかけ札を出して閲覧を呼びかけた。文明開化の新風にふれた藤井の民衆にたいする一種の啓発運動でもあった。

 この藤井がのちに「筑紫新聞」の発刊に参画し、つづいて独力で「めさまし新聞」(福日の直接の前身)を創刊するに至るが、この新聞縦覧所こそ、かれが新聞事業とかかわりをもつ第一歩であった。

 当時の中央における一般的新聞の主流が、政治の動向を重視した、天下国家を論ずるいわゆる政論新聞であるのにたいして内戦の緊迫した情勢下に誕生した「筑紫新聞」は社説欄もなく・戦況(明治十年に始まった西南戦争)ニュースを主体とした報道新聞として発足したところに特色がある。

 「福岡新聞」は、旧福岡董臼井浅土へ秋月人の士口田利行によって刊行された。玄洋社史は「当時秋月の人、吉田利行は福岡に在りて福岡新聞を稜刊し、傍ら成美義塾を設けて子弟を養成するあり」と記している。成美社と成美義塾は同ノ経営に属していたことからしても、同紙は「筑紫新聞」が報道新聞であったのに対して、むしろ政論新聞の色彩の濃いものであったことが知られる。

 「めさまし新聞」は、二年三月に一枚一銭五厘、1ヶ月十八銭、三カ月五+銭に値上げ)。この定価は「福岡新聞」の一枚二銭よりも格段に安いが、同紙との競争を意識してのことでもあろうが、一つには民衆を対象とした郷土紙の使命といったものが、藤井をして安価で、わかりやすい報道新聞の発行に踏切らせたのであろう。

 このように、明治十(1877)年に始まった西南戦争を契機として、日本の新聞は「政論新聞」から「報道新聞」へと役割を変えていく。そして、そのメディアとしての姿勢が、大正、昭和に向けての好戦的国家日本の国づくりに大いに貢献したのではなかろうかと考える。

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