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『記憶の果ての鏡』: 短編小説

第1章:霧の中の私

私の名前は鈴木美咲。少なくとも、そう呼ばれていることは確かだ。

窓の外では、秋の冷たい雨が東京の街を覆い尽くしていた。指先で曇ったガラスに触れると、その冷たさが私の存在を確かめているかのようだった。

「どうして、何も思い出せないの?」

独り言を呟きながら、私はパソコンの画面を見つめた。そこには、半年前に出版された私の最新小説『霧の向こう側』が表示されていた。驚異的な売り上げを記録し、作家としての私の地位を不動のものにした作品。でも、それを書いた記憶が、まるでない。

6ヶ月前、私は突然の記憶喪失に見舞われた。それ以前の記憶は断片的で、まるで霧の中を歩いているようだ。医師たちは一時的なものだと言うが、半年経った今も、状況は良くなっていない。

「美咲、締め切りまであと1ヶ月よ。どう、進んでる?」

突然、親友で担当編集者の佐藤舞からの電話が鳴った。彼女の声には心配と焦りが混ざっていた。

「ああ、舞か。うん、まあ...なんとか」

嘘だ。全然進んでいない。新しい小説のアイディアはあるのに、それを形にする自信がまるでない。

「大丈夫?何か手伝えることある?」

「ありがとう。でも...私、本当に作家なのかな」

電話の向こうで、舞が息を呑む音が聞こえた。

「美咲、あなたは才能のある作家よ。『霧の向こう側』を書いたのはあなた。それは間違いないわ」

舞の言葉は優しく、でも何か隠し事をしているような気がしてならない。

電話を切った後、私は部屋の中を歩き回った。壁には私の小説の表紙が飾られ、本棚には私の名前が記された本が並んでいる。でも、それらはまるで他人の人生の断片のようだった。

ふと、窓の外に目をやると、隣のアパートの2階に灯りが点いているのが見えた。そこに住む高橋誠の姿があった。彼とは挨拶を交わす程度の付き合いだが、妙に気になる存在だった。誠は私を見つめ返し、微かに頷いた。その瞳には、何か秘密を知っているような色が浮かんでいた。

その夜、私は再び同じ夢を見た。霧に包まれた迷宮のような図書館。そこで私は必死に何かを探しているのだが、それが何なのかわからない。目が覚めると、枕元のメモ帳には走り書きで「夢見の書」という言葉が記されていた。

翌朝、私は近所の古い本屋に足を運んだ。そこで「夢見の書」を探すつもりだった。店内に入ると、埃っぽい古書の匂いが鼻をくすぐった。

「何かお探しですか?」

老店主の声に振り返ると、そこには「夢見の書」と書かれた古ぼけた本が置かれていた。

「これを...探していました」

私の声は震えていた。この本が、失われた記憶への鍵になるかもしれない。そう直感した瞬間、頭に鋭い痛みが走った。

「お客さん、大丈夫ですか?」

老店主の声が遠くなり、視界が歪んでいく。最後に見たのは、本の表紙に映る自分の顔。そこには、知らない私がいた。


第2章:揺らぐ現実


目を覚ますと、見慣れない天井が広がっていた。白い壁、消毒液の匂い。病院のベッドの上だと気づくまでに少し時間がかかった。

「よかった、目を覚ましたのね」

ベッドの横に座っていた舞が、安堵の表情を浮かべた。

「何があったの?」私は弱々しく尋ねた。

「古本屋で倒れたのよ。幸い、大事には至らなかったみたい」舞は私の手を優しく握った。「でも美咲、あなた、どうして『夢見の書』なんて探していたの?」

その瞬間、頭に閃光が走った。断片的な記憶が押し寄せる。霧の中の図書館。誰かの笑い声。そして...実験室?

「私...何か思い出しそうで...」言葉を絞り出そうとした時、病室のドアが開いた。

「鈴木さん、お加減はいかがですか?」

白衣を着た中年の男性が入ってきた。

「浅田博士です」舞が紹介した。「記憶障害の専門家で、美咲のケースを担当してくださっているの」

浅田博士は親しげに微笑んだが、その目は何か計算しているようだった。

「鈴木さん、あなたの症状は珍しいものです。突然の記憶喪失、そして断片的な記憶の再生...」博士は熱心に語り始めた。「私たちの研究では、このような症状は極めて稀で...」

その時、私の頭に奇妙な考えが浮かんだ。

「博士、もしかして...私は実験台だったんでしょうか?」

部屋の空気が凍りついた。舞は息を呑み、浅田博士の表情が一瞬崩れた。

「そ、そんなことはありません」博士は慌てて否定した。「あなたは単に特殊な記憶障害を抱えているだけです」

だが、その言葉は私の疑念を払拭するには至らなかった。

数日後、私は退院した。帰宅すると、机の上に「夢見の書」が置かれていた。古本屋で手に取った瞬間に倒れたはずなのに、どうしてここに?

おそるおそる本を開くと、そこには見覚えのない筆跡で物語が綴られていた。しかし読み進めるうちに、それが私自身の手で書かれたものだと確信していった。

物語は、記憶を操作する実験に参加した女性の日記のようだった。彼女の体験が、私の断片的な記憶と重なっていく。

夢中で読み進めていると、突然ドアをノックする音がした。

「美咲さん、お邪魔します」

隣人の高橋誠だった。彼の手には、何かの書類が握られていた。

「これ、あなたに渡すように言われていたんです」誠は少し躊躇いながら言った。「でも、いつ渡すべきかは...忘れてしまって」

私は震える手で書類を受け取った。それは「記憶操作実験同意書」と題された文書だった。そこには確かに、私のサインがあった。

「誠さん、これは...」

「僕にも詳しいことは分かりません」誠は真剣な表情で言った。「でも、美咲さんの真実を知る権利はあると思うんです」

その夜、私は再び夢を見た。今度は霧の向こうに、実験室らしき場所が見えた。そこには浅田博士の姿があり、私は実験台の上に横たわっていた。

「記憶の再構築に成功しました」博士の声が響く。「彼女の想像力は、私たちの予想を遥かに超えています」

目が覚めると、私は冷や汗をかいていた。窓の外では、秋から冬へと移り変わる風景が広がっていた。現実と夢、記憶と創作。それらの境界が、どんどん曖昧になっていく。

私は決意した。真実を追求しよう。たとえそれが、自分自身の存在を否定することになるとしても。

パソコンを開き、新しい小説を書き始めた。タイトルは『記憶の果ての鏡』。

これが現実なのか、それとも操作された記憶の中なのか...


第3章:真実の迷宮


冬の冷たい風が窓を叩く音に、私は我に返った。パソコンの画面には、数時間書き続けた『記憶の果ての鏡』の原稿が並んでいた。しかし、それを読み返すと、まるで他人の手によるもののように感じられた。

「これは...私が書いたの?」

疑問が頭をよぎった瞬間、携帯が鳴った。舞からだった。

「美咲、大変よ!出版社が緊急会議を開くって。あなたの新作について話し合うんだって」

「え?でも私、まだ...」

「何を言ってるの?あなたが先週提出した原稿よ。みんな、あれを読んで騒然としているの」

混乱する私を置いて、舞は電話を切った。先週?原稿?記憶にない。

急いで出版社に向かう途中、私は「夢見の書」を鞄に入れた。なぜか、これが重要な鍵になる気がしていた。

会議室に入ると、出版社の幹部たちが固唾を呑んで私を見つめていた。

「鈴木さん、あなたの新作は...驚異的です」編集長が口を開いた。「しかし、これは小説なんでしょうか?それとも...」

「すみません、私には...」

言葉に詰まる私を、舞が助け舟を出すように割って入った。

「美咲の斬新な手法に、皆さん驚いているんです。現実と創作の境界を曖昧にする手法が...」

舞の言葉が遠のいていく。私の目に入ったのは、会議室の隅で静かに座っている浅田博士の姿だった。彼が何故ここにいるのか、誰も不思議に思っていないようだった。

会議が終わり、廊下に出た私を、浅田博士が呼び止めた。

「鈴木さん、素晴らしい作品です。しかし、あなたはまだ本当の力に気づいていない」

「本当の力?どういう意味ですか?」

博士は微笑んだ。「あなたの想像力は、現実を変える力を持っているんです」

その瞬間、廊下の景色が歪み始めた。壁が溶け、床が揺れる。気がつくと、私は見知らぬ実験室にいた。

「ここが...現実?」

「いいえ、これもあなたの想像力が生み出した世界です」博士の声が響く。「あなたは、意識と無意識の境界を自由に行き来できる特殊な能力を持っているんです」

混乱する私の前で、実験室の風景が霧の図書館に変わっていく。そこには「夢見の書」の山があった。

「これらは全て、あなたが生み出した物語。そして同時に、あなたの記憶でもあるのです」

私は震える手で一冊の本を取り上げた。開くと、そこには未完の『記憶の果ての鏡』が続いていた。

「私の人生は...全て創作だったの?」

「そうとも言えるし、そうでないとも言える」博士の声が柔らかく響いた。「あなたの想像力が現実を作り、その現実があなたの想像力を育てる。それが、あなたの特殊な才能なんです」

その時、霧の向こうから誰かが近づいてきた。舞だった。

「美咲、目を覚まして」彼女の声が悲痛に響く。「お願い、現実に戻ってきて」

現実?どれが現実?私の中で、様々な記憶と物語が渦を巻く。

「選択するのはあなた」博士の声が遠のいていく。「物語の結末を、あなたが決めるのです」

私は深呼吸をした。目の前には、無限の可能性が広がっていた。ペンを取る。物語を紡ぐ。それが、私の現実を作る。

「私は...」


第4章:境界線の彼方


「私は...物語を生きる」

その言葉を口にした瞬間、周囲の景色が激しく変動し始めた。霧の図書館、実験室、出版社の会議室、そして私のアパート。様々な場所が万華鏡のように入れ替わり、やがて落ち着いた。

気がつくと、私は見慣れた自室にいた。しかし、何かが違う。壁には今まで見たことのない賞状や写真が飾られ、本棚には私の名前が記された数十冊の本が並んでいた。

「美咲!」

振り返ると、そこには涙ぐんだ舞の姿があった。

「やっと...やっと戻ってきたのね」

彼女は私を強く抱きしめた。その温もりは、紛れもなく現実のものだった。

「舞、私は一体...」

「あなた、1年間も昏睡状態だったのよ」舞は静かに説明し始めた。「でも、その間もあなたの脳は活発に活動していて。気がつけば、次々と新しい物語を生み出していたの」

私は困惑しながらも、少しずつ状況を理解し始めた。私の意識は現実と創造の世界を行き来し、その過程で様々な物語を生み出していたのだ。

「でも、どうして私にこんな能力が?」

その問いに答えるように、部屋のドアが開いた。

「それは、私たちの実験の結果です」

入ってきたのは浅田博士だった。彼の表情は、罪悪感と興奮が入り混じったものだった。

「美咲さん、あなたは私たちの『意識拡張プロジェクト』の被験者でした。しかし、予想をはるかに超える結果となってしまった」

博士の説明によると、このプロジェクトは人間の創造力と現実認識の限界を探るものだった。しかし、私の場合、その境界線が完全に溶解してしまったのだ。

「あなたの生み出す物語は、単なるフィクションではありません」博士は熱心に語った。「それは新たな現実を創造する力を持っているのです」

その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが覚醒した。今まで見てきた不可思議な出来事、断片的な記憶、そして湧き出るアイデアの数々。全てが繋がった。

「待って」突然、別の疑問が浮かんだ。「高橋誠は?彼も実験に関わっていたの?」

舞と博士は顔を見合わせた。

「誠は...あなたの想像力が生み出した存在です」舞が静かに告げた。「あなたの無意識が、真実に近づくための案内人として創り出したキャラクターなのよ」

その瞬間、窓の外に誠の姿が見えた。彼は優しく微笑むと、霧の中へと消えていった。

「私には、何ができるの?」私は自分の手を見つめながら尋ねた。

「それは、あなた次第です」博士が答えた。「あなたの想像力は、現実を変える力を持っています。しかし、その力をどう使うかは、あなた自身が決めなければならない」

私は深く息を吸い、目を閉じた。頭の中で物語が紡がれていく。新しい世界、新しい可能性。それらが、現実となっていく感覚。

目を開けると、部屋は少しずつ変化していた。窓の外の風景は、今までにない美しい光景へと変わっていった。

「これが、私の選んだ物語」

舞と博士は驚きの表情を浮かべていた。

「美咲」舞が静かに言った。「あなたは、世界を変える物語を書くのね」

私はうなずいた。ペンを取り、新しい物語を書き始める。それは、単なるフィクションではない。新しい現実を創造する、真の物語。

「さあ、新しい章の始まりです」

私の言葉とともに、部屋全体が輝き始めた。物語は続いていく。現実と想像の境界を超えて、無限の可能性へと――。


(終わり)

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