地球の裏側で日本古典文学を愛した少女

 漫画やアニメに特に興味はなかったが、14歳の時から母国イタリアとまったく違う国に住んでみたいと思って日本の高校に留学する夢を見ていた。そして、夢がかなった。

 17歳の時、十か月兵庫県の高校で留学することになった。しかし、ホストファミリーとうまくいかなかったし、学校でも友達を簡単に作れなかった。人生で初めて好きな人ができたけど、それもひどい片思いに終わってしまった。文化の違いが山ほどあり、親しく接してくれる人誰もいない。他人に傷つけられ、他人を傷つける毎日だった。

 その十か月には悪いことしかなかったとは言わない。例えば、京都での修学旅行は今でも心に響く甘酸っぱい思い出である。孤独を経て強くなったと思う。そして、失敗を何度も繰り返しながら日本語を話せるようになり、様々な文化を知り、うまく行かない人間関係にも思いやりを注ぎながらなんとか大人になったその留学が終わり、日本から持って帰ったものには良い思い出と辛い思い出、両方あった。

 留学が始まって三か月が経ったときのこと。 通っていた高校の図書室の本棚に何気なく目を通していた。幼い時から図書館は私を落ち着かせる場所である。並んでいる本から放たれる紙の匂いとぬくもり、本棚から伸びる陰。その日も癒しを求めて高校の小さい図書室に逃げていた。やがてある本に 目がとまった。

 つるつるで色鮮やかな背表紙に『源氏物語 Kodansha's Illustrated Japanese Classics』と書いてあった。本棚からその本を出して、借りた。そして、帰りの電車でページをパラパラとめくり出した。それは、紫式部に出会った忘れられない瞬間である。しかし、それはまだ私のエンジンがかかった瞬間ではなかった。。

 その留学が終わって、イタリアに戻り高校を卒業した。そしてビジネスの短期大学に通い、19歳から会社員として働き出した。仕事の内容は面白かったが、毎日頭の中で日本を旅していた。いやな思いではだんだん薄くなっていき、懐かしみといつの間にか気づかずに日本に対して抱き始めた愛情が強くなっていった。この頃も癒しを求めて図書館に逃げていた。一年間で日本文学の本棚に置いてあった本ほぼすべて読み終えた。昼休みに、通勤の電車の中で、寝る前に、片手で朝ごはんを作りながら、次々芭蕉、漱石、芥川、谷崎、川端、太宰等のイタリア語訳をすべて読み通した。ページの中で私の愛していた日本、理解できなかった日本、怒りを覚えさせた日本をむさぼり読んだ。読書の御蔭で、少しずつ日本と仲直りした。その時まで痛かった傷がページをめくるたびに治った。

 最後に、数年前のあの日に、兵庫県の高校の図書室で出会った『源氏物語』に挑戦してみた。簡単ではなかった。時間と努力が必要である。最後のページを読み終わったときに、数年前に植えた種がやっと芽生えたように私の中でなにかが変わっていた。しかし、自分の周りにいる人たちは紫式部の名前すら聞いたことはなかった。
 「素晴らしいものだよ!本当に読んだほうがいいよ」と何人の家族や友達に言ってみたが、無視された。みんな世界一の文学傑作のタイトルも知らずに生きていた。いかにもったいないか。
 「じゃあ、仕方ないから私が知らせてやろう。」

 私は美しいものに出会ったら、その美しさを他人と共有してそれを一層楽しみたい。概して日本文学は素晴らしいと思うが、『源氏物語』及び平安時代の文学は文明の傑作だと思う。好みはもちろん人それぞれであるので、私とまったく逆な意見を持っている人も多いであろうし、私はそれに対して別になにも感じない。しかし、周りにいた人たちは、日本の古典文学をそもそもまったく知らなかったし、興味を抱き始める機会もなかった。私はその機会を与えたかったが、具体的にどうすればいいか分からなかった。

 そして四年前の、春の花の 香りが漂っていたある夕暮れ。仕事帰りに、駅からバス停に向かってフィレンツェのドゥオーモ大聖堂の前を通っていた。幼い頃からよく見慣れた景色なので、周りにあまり気づかずに、スマホを見ていた。突然、友人から日本大使館のリンクが送られてきた。それを開いてみると、日本で大学に通うための奨学金のページが画面に映る。理解するまで数秒がかかった。
 そして、空を向いて目を張った。
 「これ本当なの?嘘じゃないの?」
 サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂が夕暮れに白く光っていた。
 私のエンジンがかかった瞬間は忘れられない。

 早送りすると、私はその奨学金を勝ちとった。イタリアからは毎年たった一人の留学生にしか与えられていないらしい。京都大学に入学し、来年卒業する予定である。好きなものを研究できて、わざわざ図書館に逃げ込まなくても毎日心一杯で生きている。
 インスタグラムで無料で和歌や物語の翻訳を投稿 するなど日本の古典文学について発信し、二年半でなんと6千フォロワーを上回った。少なく見えるかもしれないが、この6千人のイタリア人フォロワーは私が頑張って語る日本の古典文学に興味を持ちだした人だと考えたら感動の涙が出る。2021年に『源氏物語』の読書会を開いた。毎週一巻をみんなで読み、みんなでコメントする。土曜日のユーチューブのライブ配信で私はその週の巻の内容を説明してから読者の質問に答える。毎回数十人が参加してくださる。

 エンジンがかかってから一度も止まっていないし、死ぬまで止まる気がない。私は日本の古典文学とイタリア人読者の架け橋になるために生まれてきた。

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