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「水に沈んで風に生かされ火で清めらる」ルカによる福音書3:15~22 日本キリスト教団川之江教会 公現後第一主日礼拝メッセージ 2023/1/8

イエスがキリストとして現れた日

 一昨日の1月6日は、キリスト教の暦で「エピファニー」と言います。現れ出るという意味で、日本の教会では公けに現れる日と書いて「公現日」と言います。では何が公に現れたのかというと、それはイエス・キリストです。先々週の日曜日に私たちは主イエス・キリストの誕生をお祝いするクリスマスを迎えましたけれども、そのときはまだ「公に現れた」とは言えませんでした。その誕生は羊飼いや東の国の博士などごく限られた人たちにしか知らされませんでしたし、幼少期の主イエスについては聖書にもほとんど記録がありません。それは別の言い方をすると主イエスは少年時代や青年時代には、キリストとしての活動をしていなかったということです。つまり公現日は主イエスがキリストとしての活動を始めた日、キリストとしての主イエスが公に人前に現れたことを記念する日なのです。それは主イエスが30歳の頃と言われています。ちなみにキリスト教の暦では公現日をもってクリスマスの期間が終わることになっています。12月25日から数えて13日目ですが、主イエスの生涯からすれば30年が過ぎていることになります。

水によるバプテスマ

 主イエスのキリストとしての活動は、バプテスマのヨハネという人から洗礼を受けることから始まりました。洗礼を授けることではなく、洗礼を受けることです。洗礼と言えば今はキリスト教徒になるための儀式ですので、主イエス自身が初めて洗礼を授けたというのなら分かりやすいのですが、別の人から洗礼を受けたとなると不思議な感じがします。実は洗礼という儀式自体は、それ以前から行われていました。バプテスマのヨハネが行なっていたのは、<悔い改めの洗礼>でした。人が抱えている罪、過ちや穢れたところを告白し悔い改めを約束して、その証しとしてヨルダン川の水の中に全身をドボンと沈め<罪の赦し>をいただく、それがヨハネの行なっていた洗礼でした。
 その儀式の様子から、日本人は神道の禊を連想するかもしれません。また「洗礼」という漢字から、罪や穢れを洗い流して清らかになるというイメージを抱くかもしれません。けれどもバプテスマのヨハネの洗礼は、それとはちょっと違います。皆さんがいま手にしておられる聖書(『新共同訳』あるいは『聖書協会共同訳』)は漢字にはすべて振り仮名がついていますけれども、「洗礼」という漢字には「せんれい」ではなくてカッコつきで「バプテスマ」と書かれています。「バプテスマ」は「洗礼」と訳した元々のギリシャ語の音訳で「バプテスマのヨハネ」というネーミングもここから来ているわけですが、元々のバプテスマには「洗う/洗い流す」という意味はありません。元々のバプテスマは「沈める」という意味の言葉なのです。では人が全身を水の中に沈めたままでいると、どうなるでしょうか。言うまでもなく死んでしまいます。つまりバプテスマという言葉は、死を連想させる言葉なのです。そして「バプテスマを受ける」ということは、それまでの自分が死んで新しく生まれ変わることなのです。
 そう考えると、主イエスがヨハネからバプテスマを受けられた意味も分かってきます。それは主イエスがキリストとしての活動を始めるにあたって、それまでの自分を捨てて生まれ変わられたということです。故郷のナザレ村で両親のもと兄弟や妹と家業の大工仕事を手伝いながら暮らしてきた生き様を捨てて、キリスト教徒ならぬキリストになるためにバプテスマを受けられたのです。ちなみにいま行われている実際のバプテスマは一部の教会を除いて、全身を水の中に沈めるやり方ではなくて少量の水を三度頭に注ぐ方法がとられています。但しそれは現代の合理的に省略したやり方ということではなく、一世紀末つまりキリスト教が誕生して間もない頃には既に行われていたようです。そもそも全身を水に沈める方法にしても実際に溺死させるわけではないのですから、古い自分が死んで新しく生まれ変わるという意味をしっかりと受け止めるならば、形がこうでなければならないということはないわけです。
 ところでバプテスマのヨハネは、人々が待ち望んでいたキリストについてこう言っています<わたしはあなたたちに水でバプテスマを授けるが>、後から来られる<わたしよりも優れた方・・は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる>。このことは、ヨハネのバプテスマとキリストのバプテスマの違いを言っているように思います。つまりキリスト以前のヨハネはバプテスマを水で授けていたけれども、キリストは聖霊と火で授けられると。でもキリスト教会ではその後もずっと水でバプテスマを授けていますし、火で授けているなんて話は聞いたことがありません。ですから、水から<聖霊と火>に変わったという話ではないようです。先ほども言いましたように形がどうこうということに囚われないで、それぞれが意味していることはどういうことなのかを受け止めていきたいと思います。

水と風と火に聖霊が働く

 ただ本題に入る前に水と聖霊と火の三つが同じように並べられているのは、どうにもしっくりきません。というのも<聖霊>は聖書では神様の姿の一つですが、水や火は神様が造られた被造物だからです。また水によるバプテスマも、意味なく水に沈んでもただ息苦しいだけで終わりますが、それで生まれ変わったと意味づけられるのは聖霊の働きがあるからです。火についても聖霊の働きがなければ、ただの火に過ぎません。一方、古代ギリシャの哲学では「万物は火・風・水・土の四つの元素から成り立っている」と考えられていました。そして<聖霊>という日本語に訳された元々のギリシャ語は、「風」と訳すこともできるのです。そこで<聖霊>の部分をいったん「風」と置き換えて水と風と火の三つを並べた上で、水と風と火それぞれによるバプテスマのそれぞれに聖霊が働かれていると受け取るのが良いと思います。ちなみに「土」はどこへ行ったのかというと、聖書では人間の体は土から造られたとされているので土によるバプテスマはないのかもしれません。さて、水によるバプテスマの意味は前半でお話ししましたので、ここからは風と火によるバプテスマについて見ていきたいと思います。
 風によるバプテスマは、風に身を沈めるということです。日本語としてしっくりきませんが、風の中に身を置くとか風に全身が包まれるといった感じでしょうか。イメージとしていのちを感じます。水の中に身を沈めると死を感じるのとは反対に、風は命を感じさせます。私たちが呼吸する息も「風」の一つです。神様は土をこねてアダムを造り、鼻から息を吹き入れて生きる者とされました。ただの土くれに、いのちが吹き込まれたのです。いのちの息が吹き込まれる様子は、聖霊の働きの特徴をよく表しています。それで風や息を表す言葉は、転じて聖霊そのものを表す言葉になったのでしょう。
 火によるバプテスマは火に身を沈める、火の中に身を置くということです。焼け死んでしまいそうですが、ここでは精錬の火がイメージされているようです。精錬というのは不純物の多い金属を純度の高い金属にすることを言います。いろんな方法があるそうですけれども、高温の火の中で金属を溶かして不純物を取り除く方法は旧約時代には既に知られていました。清いところと罪深いところが混然一体となっている人間から罪を取り除く聖霊の働きを、精錬の火に譬えたのでしょう。また火は脱穀した麦の殻を焼き払うように、取り除いた罪をそのままにしておかない聖霊の働きをもイメージしています。高温で溶かされ焼き払われるという厳しいイメージですが、その厳しさの中に聖霊の働きの確かさが表されています。
 最後に、ここには三つのバプテスマのイメージが記されているのですが、ヨハネはそれを水によるバプテスマと風と火によるバプテスマの二つに分けています。この二つの間に何か違いがあるのでしょうか。それは人間の行いとして、求めることができるかどうかの違いではないでしょうか。水の中に身を沈めることは、人が自ら行うことができます。そこに聖霊の働きがなければ意味のないことは言うまでもありませんが、それにしても行為そのものは人が自ら行うことができます。人の組織としての教会が水によるバプテスマを行うことができるのも、そういうことです。
けれども風や火は違います。人は風を吹かせることはできません。風に吹かれるかどうかは風任せです。風によるバプテスマは受け身なのです。けれども聖霊は、絶えず風が吹くように新しいいのちを吹き込み続けてくださるのです。また火はその厳しいイメージから、試練や苦難を表しています。試練や苦難に自ら身を置くことは出来ないことではありませんが、心情的にはできれば避けたいものです。それどころか試練や苦難は、意に反して襲ってくるものです。そして私たちができることは、ただそれに耐えることだけです。火によるバプテスマもまた受け身なのです。けれども聖霊は、そのような試練や苦難によってでさえ人の罪を取り除き、より清い者へと私たちを造り変えてくださるのです。
ですから風と火によるバプテスマは、教会で授けることはありません。ただキリストが聖霊によって、私たちに授けてくださるバプテスマです。私たちが自ら求め、教会で授かった水によるバプテスマに聖霊を働かせて下さるだけでなく、その後も絶えず私たちに新しいいのちの風を吹かせ、ときに精錬の火で私たちを清めてくださる主イエス・キリストに、私たちは身を委ねたいと思います。

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