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「終わりを見据えて永遠を望む」 ルカによる福音書21:5~9 日本キリスト教団川之江教会 公現後第四主日礼拝メッセージ 2023/1/29

 もし日常の平穏な生活が脅かされるような恐ろしいことが身近に起こったとしたら、私たちは不安になります。この後自分たちはどうなってしまうのだろうかと怯えてしまい、先行きが見えなくなってしまったら「もうこの世の終わりか」とまで思ってしまうかもしれません。最初に「もし」と言いましたけれども、いま私たちは実際に日常の平穏な生活が脅かされる恐ろしさを身近に感じています。新型コロナ禍は、発生から4年目に入っています。ロシアの軍事侵攻から始まったウクライナでの戦争は丸一年続いていますが、どちらの為政者も終わらせる気配がありません。地震・大雪・夏の台風といった自然災害は毎年のように起こり、南海トラフ巨大地震を予知する報道は首を真綿で絞められている感じがします。長い不景気で収入が減り続けている一方物価が上がり続けていますが、政治は対策を打つどころか軍事予算を増やし税金を上げると言い出す始末で、むしろ私たちの生活を壊そうとしているかのようです。「この世の終わり」とは思わないまでも、このままいけば日本は終わってしまいかねません。

イエスの神殿崩壊予告

 主イエスの時代にも、そんな終末観が漂っていました。しばらく続いてユダヤ人自身による政府も風前の灯火で、ローマ帝国による支配が強まってきていました。主イエスが教えられたごく短い祈りの中で<必要な糧を今日与えてください>と祈らなければならないほど、人々の生活は困窮していました。そして人々が受けるはずの富は、一部の階級の者たちが独占していたのです。その象徴がエルサレム神殿の拡張工事でした。
 主イエスの時代のエルサレム神殿は、第二神殿と呼ばれています。エルサレムに初めて神殿を建てたのはユダの王ソロモンでしたが、バビロニア帝国の軍事侵攻で破壊されてしまいます。バビロニアの支配が終わると神殿は祖国復興のシンボルとして再建されるのですが、それは小さくみすぼらしいものでした。そしてその後幾度も戦乱が続き、紆余曲折を経ながら次第に老朽化していったのです。そこに手を入れたのがヘロデ大王でした。主イエスが生まれる20年ほど前のことでした。国威発揚のために大掛かりな増改築工事が計画され、そのために巨大な富が王のもとに集められます。工事はなんと80年を超える大事業でした。ですから主イエスの時代、神殿はまだ工事中だったのです。エルサレムの人々は、日に日に立派になっていく神殿に<見とれて>いました。人々の生活を圧迫させている神殿工事でしたけれども、<見事な石と奉納物で飾られて>いく神殿の姿は人々に希望ある未来を感じさせるものでもあったのです。
 そういう神殿の崩壊を、主イエスは予告しました。一つの石も残されず、完膚なきまでに崩されてしまうと言われたのです。人々の脳裏には、最初の神殿が崩壊したときの歴史が思い浮かんだことでしょう。他国による軍事侵攻と国家の滅亡、信仰の拠り所が奪われ故郷の地から強制的に移住させられる。自分の現在と未来がすべて崩れ去ってしまう。それはその人にとって、<世の終わり>と言っても言い過ぎではないのかもしれません。でも主イエスは<世の終わりはすぐには来ない>言われます。だから<戦争とか暴動>とかは<起こるに決まっているが><おびえてはならない>と言われるのです。この言葉には少々戸惑われるのではないでしょうか。世の終わりは来なくても、戦争とか暴動はそれだけで十分恐ろしいことです。命を失うかもしれませんし、平穏な生活が一変してしまうかもしれません。世の終わりほどではないとしても、たいしたことないと言わんばかりに達観できるものではないからです。

「世の終わり」って何?

 ところで皆さんは<世の終わり>というものを、どんなふうに考えておられるでしょうか。一番に思いつくのは、世界が滅亡するとか地球が爆発するといったイメージかもしれません。「終わり」を辞書で引くと「最後、おしまい、果て」とあります。もう先はないとか、すべてが失われるとか、いずれにしても私たちには望ましいことではないことに違いありません。一方戦争とか暴動は、それですべてが終わってしまうわけではないでしょう。とても究極的な言い方ですが、「だから希望を失うな」というのも大事なことなのかもしれません。でもそれで世が終わらないとしても、戦争とか暴動も終わらないのでしょう。一つの戦争や暴動が終わっても、<こういうことが>また<起こるに決まっている>。そうやって悲惨な戦争とかが果てしなく続けられるのなら、いっそのこと世の終わりが来てほしい、そんな思いにもなってしまうのではないでしょうか。どちらにしても絶望的です。
 けれども聖書が言う<世の終わり>は、それとは違います。聖書が言う<世の終わり>は、すべての終わりではありません。いわば混沌とした世、不条理な世の終わりです。それは言い換えれば神の御心が実現する世の始まり、平和が実現し正義や公正が損なわれない世の始まりを言うのです。いわば聖書が言う<世の終わり>は、私たちにとって望ましい終わりなのです。ですから主イエスの言われた<世の終わりはすぐには来ない>というのは、希望を与える励ましの言葉ではありませんでした。むしろ混沌として不条理な世がすぐには終わらないという、失望の言葉だったのです。ではなぜ、混沌として不条理な世が終わらないのでしょうか。

持続可能な世を始める

 私たちの身の回りには、始めるけれども終わり方を決めていないということが実にたくさんあることに気づきます。たとえば戦争はその最たるものではないでしょうか。ほとんどの戦争は終わり方を決めないまま、始めているように思えます。だから泥沼化しても終えることができないのではないでしょうか。原発もそうだということが、3.11福島の事故で明らかになりました。廃炉の手順が何も決められていなかったのです。ですから耐用年数40年が来ても終わることができず、昨年なし崩し的に運転期間が60年に延長されました。将来的に上限期間を撤廃することを視野に入れているのだそうですが、何をかいわんやです。
 こういった特別なことだけでなく終わりを決めずに始めることが、私たちにはたくさんあります。そもそも終わるつもりがないこともあるでしょう。でもたとえば時代が変わったり、役目を終えたり、始めたときの情熱が失せたりしても、終わることができずにズルズルと続けてしまっていることが結構あるのではないでしょうか。私たちは必要以上に、終わること終えることを恐れているのかもしれません。そして終えなければ得ることができない新しい始まりを迎えられないのかもしれません。
 <世の終わりはすぐには来ない>、これは世の終わりを恐れる私たちを安心させる言葉ではありませんでした。混沌として不条理な世に甘んじて、神様が実現される新しい世を望もうとしない私たちへの失望の言葉だったのです。そして甘んじながらも、その世では<起こるに決まっている>不条理に怯えている私たちへの警告なのです。私たちはまず身の回りから、終わることを恐れないでいたいと思います。終わりを見据えて、勇気をもって終わりを迎え入れたいと思います。そしてその先に神様が示しておられる持続可能な永遠の世を、望んで歩みたいと思います。

(祈り)
 この世は不条理に満ちています。そして私たちはその不条理に生かされ、それを手放そうとしていないことに気づかされます。不条理なこの世を終わらせてください。その終わりをしっかりと見据える者としてください。そして終わりを受け入れて、その先にあなたが示しておられる永遠に続く世を歩ませてください。

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