【戦略の立て方と分析】三国志:天下三分の計編

ちょっと前にツィッターで戦略コンサルタントと自称するアカウントがデキる戦略コンサルタントとデキない戦略コンサルタントについて書いていたモノを読んで、それが「戦略とは何の関係もないだろ」という駄目な内容だったことと、そう言えば経営コンサルタントをやってた頃から何処の企業も経営戦略なんて言いながら戦略なんて無かったに等しかったな、と思い出し、この機会に僕の思う戦略について多くの人が知っている歴史上の事象を題材にしつつ戦略の分析と立て方等々について書いておこうと思う。自営業者や経営者やコンサルタントには少しは役に立つかもしれない。

尚、歴史上のことを題材にして書くのだけれど、僕が勝手にそう考えているというモノなので実際どうだったかとかそれは違うという意見があれば当然受け入れるし、どちらかと言うと是非違う意見を言って欲しい。お待ちしてます。

それではまず戦略の最も重要なことから。

戦略を立てる時および実行する時に孫子の兵法のような戦略論も重要なのだけれど、そして戦略を立てる多くの人はそれが最も重要だと思っていると思うが、最も重要なのは戦略を立てる前の「構想」。構想は構想なくして戦略なしと言っていいぐらい必要なもの。例えば現在では中国の一帯一路という構想は(中国にとって)素晴らしい構想だし、嘗ての日本、明治時代にも富国強兵という国策構想があった。

この構想について解りやすいものが諸葛孔明が立てた天下三分の計。え、あんなのが良い構想・戦略だったの?と思っている人も多いと思うが、流浪の身に等しかった劉備にとって、また曹操に対抗する為の構想としては他に無かった唯一無二の構想と言っていい。

そしてその後の蜀漢ができるまで、もっと言えば関羽が暴走し戦死するまでの劉備一行の戦略・行動は全てこの天下三分の計を実現することのみに一貫している。この構想がなければ劉備はずっと流浪状態のままだったし、それまでの劉備の実績と変わらずその時その時の戦で勝とうが負けようがどうにもならなかった。言い方を換えれば天下三分の計さえ実現できるのであれば戦の1つや2つ負けても構想実現の致命傷にならない限り大した問題ではなかった。それこそ勝敗は兵家の常。それぐらい戦略の前の構想は重要であり、構想なくして戦略なし、である。

次に天下三分の計の最初である、曹操の荊州攻略について分析してみよう。

曹操が荊州攻略に南下してきた時の劉備の戦略的選択は大きくは2つに分けられる。
①荊州を奪い取らず江陵・江夏に逃れた場合(史実)
②劉備が江陵・江夏に逃れず荊州を奪い取った場合(仮想)

①の場合は呉と提携して赤壁の戦いで勝ち、荊州を奪いとり天下三分の計の足掛かりとなったのはご存知の通り。これについては孔明・周瑜の成功というよりは曹操の戦略的失敗と思っている。

曹操という人物を分析していくと多情多感多種多才の天才なのは間違いないのだが、唯一の弱点を一言で言うと油断大敵だ。自分より強い敵には粘り強く戦い最終的に勝つのに、自分より弱い敵には実はしばしば負けている。もう完全に油断大敵、驕りたかぶった権力者は痛い目を見るという典型例。

劉備が尻尾まいて逃げて行った後に易々と荊州を攻略できた所為もあったのだろう。呉の孫権に「80万兵を連れて行くから会稽で狩猟しよう」なんて脅しをかけたことが大失敗。孫権にしてみれば降伏した劉琮一族が雲散霧消し、荊州が曹操の支配下に置かれた上に脅迫文が届けば、全てを失う負けを覚悟で戦うか、全てを失う覚悟で降伏するかの2択に見えて実は1択しかない。

孫権にしてみてもどっちにしたって自分は全て無くなるんだから戦うしかない。戦って勝つ以外ない、が、悩んでいたのはそれに家臣が付いて来てくれるかどうかが主だったろう。それについては周瑜・魯粛・黄蓋の主戦派がいて戦うことになり、赤壁の戦いへと至る。

じゃぁ曹操にしてみればどうすれば良かったのかと言うと、それは以下に後述する。

②劉備が江陵・江夏に逃れず荊州を奪い取った場合(仮想)。

要塞堅固だと言われていた襄陽城を劉備に攻略できたかどうか、つまり戦略の選択性があったかどうかについては実際攻略する気でも攻略できなかったのでは?という気がしないでもないが、その点は孔明が何とかしたと思う。当初は孔明も襄陽を奪取してそこで抗戦することを主張していたようなので何かしらの策はあったと思う。

そこで劉備・孔明が襄陽城を奪取して民心及び荊州各将・兵士を掌握し、迫りくる曹操と対峙した場合、当然長期の攻城VS籠城になる。そうなった場合、曹操の採る戦略を考えると荊州包囲網を作ることを進めていくのが常道。つまり会稽の孫権を始めとした揚州の各太守に江夏~江陵・襄陽を攻めるよう要請する。そこには会稽で狩猟しようなどと脅迫めいたことはしない。場合によっては益州の劉璋にも増援を求めていく。じっくり包囲網を作っていけばいい。そうすると孔明はそうさせないべく各個撃破・短期決戦の戦略を採り、混沌となっていく・・・。

①の撤退戦略(と呼べるものではないが)を採ってみても②の抗戦戦略を採ってみても孔明の活躍で結果は同じだったかもしれないが、曹操の特徴を考えると②の方がより困難な状況になっていた可能性はかなり高い。劉備は戦略的に遠回りしているようで実は近道を採っていたと言える。

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