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雨 Ⅱ


その日は、珍しく残業になった。
取引先の急な変更依頼に、怒りを通り越して笑いがでる。

「いいよ。どうせ家に帰ってもやる事ないから。」
後輩の女の子達をそう言って帰す。

イイなあ…綺麗に髪を整え直して、新しいワンピースに着替える姿。彼氏に逢いに行くのかな。

私は?今の私は?もう嫉妬する事すら忘れてしまった。

なかなか終わらない仕事。華やぐ周りに何だかバカバカしくなった。

やめた!ちょっと息抜き。

いつものスペースに向かう。
忙し過ぎて気づかなかったけど、今日は雨だった。

「あの人、来てたかな」ふっと黒い瞳が浮かぶ。
スペースが閉まる夕方ギリギリ。
誰もいない。
はあ。セーフ。良かった。煙草に火をつける。

暗がりの中、ピアノの椅子に座る影が動いた。
「…まさか」

あの人だ。
こんな時間に見かけるのは初めて。
暗がりの中、私にまるで気づかない。

そのまま『shape of you』を弾きはじめた…いつもと違ったのは…歌っていた。

低くてよく響く声。私以外誰も居ない。
高層ビルの窓に叩きつける雨音がどんどん強くなる。
でも、全く気にする様子はない。
自分以外の誰も、目に入っていない。

I'm in love with your body
君の身体にやられてるんだよ
 
And last night you were in my room
昨日は一晩中、俺の部屋に君がいたから
 
And now my bedsheets smell like you
シーツに君の匂いが残ったままだ
エドシーラン shape  of you

どんどん加速する、ピアノの伴奏とボーカルに私の膝がガクガクと震えだす。
指先が心地よく痺れ、上手く動かせない。
油断すると、声が洩れそうだから必死に口元を押さえた。

私は雷を打たれたように動けなかった。
こんなにイイ声だったの?
一気に…惚れた。
その声に。

もっと聴いていたい。
耳がそう言っている。
もっともっと…

気づいたら立って居られずに、へたりと床に座り込んでいた。身体中の力が抜けて信じられないけれど下腹部がキュっと温かく痛くなった。頭から足の先までビリビリと電気が走る。視界が白くぼやけてきた。

肩で息をしながら冷静さを必死に取り戻す。

エクスタシーってこういう事か。
初めて得た感覚に名前をつけるなら、それしか言葉が見つからなかった。

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