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雨 Ⅲ
ピアノを弾き終わった彼に
私は驚かさないようにゆっくりと近づいた。
さっきまでの私の状態は、絶対にバレないように。
呼吸を整える。
まさか、あなたの歌声でエクスタシーを感じたなんて、もう!絶対に全世界中にバレてはいけない。
「あの…すみません…」
その声に驚いたのか
「あ!ごめんなさい。もう時間過ぎてますね。」と振り返る。
どうやら注意をしに来た職員に間違われているようだ。
「いえ。違うんです。あの、よくピアノ弾きに来てますよね?私、時々見かけて…」
「あ、はい。家に電子ピアノしかなくて。雨の日なら弾いてる人が少ないから…」
彼は都内で働きながらピアノは趣味で弾いているという。リモートワークだし、時間の調整はいくらでもできるから雨の日に弾きにくる。
閉館間近は、特に弾く人もいないので時々弾き語りをしている。物腰が柔らかく話しやすい。
暗がりだからか、いつもより少し雰囲気が大人っぽい。
肌寒いからフーディを羽織り、ユルい空気が妙に色っぽく感じる。
初めて会ったとは思えないくらい、おしゃべりが弾む。テンポが合うようだ。
「こんな時間も弾きに来てるんですか?」
何げなく聞いてから、しまった!と慌てる。
これじゃ、脈アリの痛いアラサーだ。
何かを察したのか、少しだけ間を開けて
「雨の夜は来てるよ。どうして?」と返してきた。
語尾が上がる。なんでそんな事聞くの?僕に興味あるの?目がそう言っている。
ついさっきまで敬語だったのに。
近くの店の美味しいランチの話をニコニコしながらしていたのに。
突然の本気モードに、上手く言葉を繋げない。
「あ、えっと。私も時々残業で。気晴らしに偶然!ホント偶然にここに来て。はい。あの。えっと」
顔が赤くなるのが分かる。
クスっと笑うと、「じゃあ電車の時間あるんで。また偶然に会えたらいいですね。サヨナラ」
何事もなかったように、さらっと帰ってしまった。
ふと目をやると、高級そうな黒い傘がピアノに立てかけてあった。忘れていったみたいだ。
もう雨は止んでいるから気づかずに電車に乗ってしまうだろう。
どうしよう…。私はギュッと傘を握りしめた。
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