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inagakijunya
雨 Ⅳ
家に傘を持って帰り、丁寧に雫を拭き取る。軽く風に当てて乾かしたら折り目を綺麗に畳んだ。
持ち手は桜の木で出来ている。美しい傘だ。
名前聞きそびれちゃったな…傘どうやって返そう。
LINEも電話番号も知らない。
情報過多の世の中で、こんなにも知らない人に強く心惹かれている。
はあ。雨降らないかな…暫くは快晴が続くとニュースから聞こえてくると、益々残念で仕方ない。
どうやったら逢えるんだろう…、またあの声を聴けるんだろう。方法が見つからないまま時が過ぎた。
暫くは日々の忙しさに、毎日をこなすのが精一杯で。
気がつけば初夏を迎えようとしていた。
いつでも傘を返せるように、会社のロッカーに入れてある。後は雨が降るだけ。
その日は、朝からじっとりとまとわりつくような暑さだった。「夕立ちが来そうだね」同僚の何気ない一言に胸が高鳴る。
今日の夜は雨。必ず来る。
私はありもしない残業をするふりをして、オフィスに1人残る。
会えたら何て言えばいい?
傘を返すだけ。ただそれだけだ。
他に理由なんてない。返したらさっさと帰ろう。
私は、やましい事など考えてない。
そう、親切心でやっているだけだ。
そんな言い訳を1ダース用意した。
これだけあれば、十分だ。
でも、そんな言い訳が全く意味を成さない事に私はこの後気づく。
自分でも、驚くくらいに好きになっていた。
あの声を聴きたい。逢えたら何も要らない。
あの広い背中を見たら理性を抑えきれなくなりそう。
そんな不安は的中する事になる。
スペースが閉まる直前、傘を握り締めて向かう。
足が震えて上手く歩けない。鼓動が速くなる。
初夏の夕暮れの中…いた。
ピアノを一心不乱に弾いている。
誰もいない、私とあの人だけだ。
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