蒼く美しい翠


最初は小さな種だった。
青くて美しい種。
別に無くても良かった。
たまたま、心の片隅に植えたの。
硬い心の花壇に。
柔らかな土をかけて、水をあげた。
時々、思いだして様子を見に行くと、
綺麗な双葉が顔を覗かせていた。

そのうち、そよそよと優しい声で歌うようになったの。
時に低く。時に甘く。時にアーバンでナチュラル。
たまに声をかけてやると、くすぐったそうに笑った。
その声が可愛くて、何度も聴きたくて。
いつのまにか、心の大きな支えになっていた。

小さな嬰児を守る、重圧も。
手に入らない男に、抱かれる虚しさも。
老いていく母の軽さに、戸惑う日常も。

もう、どれもこれもどうでもいいの。

食べ散らかして、汚れたテーブルも。
決して泊まっては行かない、あの背中も。
何度も繰り返される、昔話も。

もう、何もかもを忘れてホントは逃げ出したいの。

リビングの窓の外をぼんやりと見つめて。
寄せては返す波のような、美しいメロディを聴くと
少しずつ忘れていたあの日に帰っていく。

まだ、誰にも縛られない。
まだ、誰のものでもない。
まだ、誰かの人生を背負わない。

あの細くて繊細で、ガラスみたいに綺麗だった自分が目を覚ます。

優しくて、ただ、ストレートに生きてるだけのあの人を見ていると。
抱きしめられたくて仕方ない。
髪を撫でられたくて仕方ない。
理由がなくても会いたくて。
あの深い海のような瞳を見つめていたい。

頬を撫でたら、手を握り返すだろう。
言葉を紡げば、遮られるだろう。
特別な感情で、結ばれるってこういう事だと。
私は生まれて初めて知るのだろう。

程なく戻ってくる日常に。
否応なく帰らなければいけない毎日に。
また、ため息をつきそうになったら。

私は風の詩を、思い出す。
蒼く光る翠。
硬くなった心の柔らかな部分に
そっと隠しておこう。

「誰にも言わないで」
耳打ちされるように優しいピアニッシモが聴こえると
大切な時間が流れだす。

Fujii Kaze twitter

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