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雨 Ⅶ

彼は何も言わない。
暫く見つめ合う。

髪を触っていた手が、肩から腰へ移ると、いよいよ私は覚悟を決めた。

言い訳1ダース考えてたけど。もうそんな物は要らない。
この後の展開に、微かな期待をしている自分に驚いている。

私も強く手を握り返す。

そっと体が離れた。
‥…?

「良かった!最後に一緒にピアノ弾けましたね!
実はちょっと忙しくなるから、もうここには来れないと思います。とても楽しかった。傘ありがとう」

それだけ言うと、リュックを背に帰ろうとした。

「待って。もう逢えないって事ですか?」
何も答えずに歩いていくあの人の背中を追いかけようとしてすごくカッコ悪いと思った。

名前だって知らない。どこに住んでるかも知らない。
偶然、このピアノの前で出会っただけの人だ。

なのに、こんなに苦しいのはなぜ…。

混乱する頭を必死に整理しようとしたのに、感情ばかりが先走り私は大粒の涙を流した。



蒸し暑い夏が終わり、東京に秋が訪れた。
真夏の夜の夢は、儚くも醒めたが。
私はこれで良かったと、傷つけ合う前で良かったと思っていた。

冷たい秋雨が降る昼下がり。街中のJAZZ BARの入り口に小さな黒板にチョークで書かれた看板を見つけた。
見覚えのある彼の写真も貼ってある。
『1st  JAZZ LIVE…』

「そうだったんだね」
夢を現実にしたんだ…だからあの日、何も言わなかった。

暫く立ち止まっていると、前から真っ黒な傘が見えた。私の前でピタリと止まる。
イイ匂い…あの日私の手を握り、髪を撫でた男の匂いだ。

「こんにちは。また偶然逢えましたね。」
にっこりと笑うその瞳は、黒曜石のように美しかった。

                  fin

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