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Garden6

「あの…こんにちは…」勇気を出して声をかける。

私に気づいて、読みかけの本を置くと
「ホントに来てくれたんだね!ありがとう」と嬉しそうにするから…変な期待をしてしまう。

「読んでるよ…えっと…」

「82年生まれ キムジヨン?」

「うん!それ!なんかさ…女の人って大変なんだね。
映画観たり、小説読む前は理解できなかったけど…男とは違うシガラミに悩んでるんだなって…」

言葉を選びながら、ゆっくりと。
彼のまわりだけ、ゆったりと時間が流れてるみたい。

私はアイスラテを注文すると、彼の目の前に座った。
丁寧に抽出されたエスプレッソにミルクが溶けていく。
時間が止まればいいのに。
ずっとこのまま、何も話さず。心だけで会話したいほど夏の夕暮れはエモーショナルだ。

「本、好きなんですね」

「うん、子供のころからね。
なんかこう、没頭するのが好きかな。音楽も…ピアノを何時間でも弾けるよ」

ピアノ?そうなんだ…趣味?お仕事?
聞こうかと思ったけどやめた。
あれこれと知りすぎると、後で後悔しそうだ。

それから、私達はお互いに好きな作家やジャンルについて話した。

子どもの頃にミヒャエル.エンデの「モモ」を繰り返し読んだ事。

10代の終わりには、村上春樹に一度はハマった事。

時間さえあれば、水曜日の夕方にはこのカフェで本を読んでいる事。

あっという間に、時間が過ぎる。
ヒグラシが鳴き始めて、夏の気だるい夕方が心地よい。
彼のApple watchは18時を表示していた。

「わ、こんな時間…ごめん。もう行かなくちゃ」

慌ただしく、帰る準備を始める姿に胸がズキンと疼く。

彼は読みかけの本をたたんで、ボディバッグにしまいながら私の目を見つめる。

「ね、また会える?」

今度はしっかりと、私の瞳を見つめる。
「また会えたら嬉しい」

私は首を縦に小さく振る。
それが精一杯の返事だった。

「よかった」

連絡先を交換すると、私達は分かれた。

彼は、左に。私は右に。

これから、あの美しい恋人と会うのかもしれない。
そんな風にチラッと思った。
でも、今はこれでいい。
ヒグラシが鳴き疲れるまでは、このまま彼を心の中で独り占めしてもいい。

私はちょっとだけニッコリして、家路を辿った。

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