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命短し

 結局は、嫉妬なのだろうと思う。

 ワーキャーという言葉がある。芸人さんにワーキャーと黄色い歓声を浴びせるような、つまりその人たちを芸のみならず人間としても好きになったファンのことだ。もちろん別に必ずしも恋愛としての好きであるわけではないけど、赤の他人を人として好きで、その人のことをもっと知りたいと思って行動(劇場に行ったり配信を買ったりメディア出演を追ったり)するわけだから、多分に恋愛的なエッセンスを含んだ応援の仕方にはなるだろう。
似た言葉で顔ファンというのもある。要はその人の顔が好きなファン。もう少し広げてみても、姿が好き、立ち居振る舞いが好きとか、そんな感じ。

 なんとなく、芸人、というかお笑いがずっと好きな私は、ワーキャーとか顔ファンとか(あるいはいわゆる関係性萌えオタクとか)に厳しい界隈の空気をずっと感じていて、そういうものに悩んでいた時期が長かった。おそらく大元をたどれば「女にお笑いはわかるまい/男はお笑いがわかってる」みたいな差別的な感覚が(目に見える形でもそうでない形でも)空気としてあって、それで結局ワーキャーファンや顔ファンは「お笑いをわかってない女ファン」代表みたいに扱われていた。だから「ちゃんとおもろいことやってお笑いでファンついてます」をアピールしたい芸人からも「私女だけどちゃんとお笑いわかってます」をアピールしたいファンからも、ワーキャーとか顔ファンはとかく批判の目を向けられがちで、ワーキャーとか顔ファンっていうのは侮辱語、とまではいかないけど、軽蔑のニュアンスを含んだ言葉だった。
 最近はさすがにそんな女はお笑いのことなんかわからないだろうみたいなことを表立って言う人は芸人側でもファン側でもあまりいない。と思う。さすがにいないよね、いたらどうしよう。逆に昔は芸人側からそういう意見が当たり前に聞かれたことの方が異常なように感じてしまう。現代の感覚だとどうしても。今は芸人もそんなこと言ったらさすがに炎上しちゃうし、あと最近はライブの配信とかコンビのYouTubeチャンネルとか月額課金制のコンテンツとか、そういう固定ファンが付いていた方がマネタイズしやすいのもあって、むしろワーキャーでも顔ファンでも、リテラシーさえあれば面白がり方は気にしないスタンスの人が多い気がする。ファン側も昔ほど(といって私は地方の育ちなので昔のライブシーンのことは知りませんが)露骨にワーキャーしなくなったのもあるだろうけど。

 じゃあ私は?というお話なのですが、ここからは隙あらば自分語りどころの騒ぎではないので読み終わってからの苦情は受け付けません。お前の話なんて知らんわという人に向けての文章ではなく、むしろこれは自分の気持ちを整理するために書いてるものなので。
 お笑い遍歴を思い返してみても明確な始まりはよく思い出せない。親がお笑い好きでネタ番組とか賞レースは見るのが当然の家だったから、自分からお笑いを見たいと思うより前にお笑いを見ていた。そこから自分の意志でお笑いを見るようになったきっかけはEテレ(当時はまだ教育テレビ)だったように思う。小学生の頃はビットワールドとかシャキーンが大好きで、そこからバカリズムとラーメンズにハマった。といっても当時まだ無法地帯だったYouTubeに落ちてた(今思えば明らかに)違法アップロードの動画をまったく訳も分からず見ていたというくらいのものなのだけど。大人になってからさすがに良くなさすぎると気づいて冷や汗かいたので、ちゃんと買えるDVDは買ったりしてます。そのあとLIFE!というコント番組にはまって、そこら辺からなんとなく、見た目が気になってくるようになった。そのあとデブッタンテというハライチとうしろシティがやってたラジオにはまって、その頃には完全に自分の脳内に「見た目が好きな芸人」というジャンルがあったし、同時にワーキャーとか顔ファンという言葉を知り、なんとなく見た目が好きみたいな感覚はよくないんだなと思うようになった。

 そういう、見た目が好きっていうのよくないんだろうなと思うようになってからは、ずっと自分のことを「ワーキャー顔ファンの要素もあるけどそれを表にあまり出してないタイプの人間」と思ってきたし、結局何ファンだろうがコンテンツが好きなことに変わりはないので、それでいいよねと思って生きてきた。それがゆえに「自分ワーキャーです」みたいのを表立ってはっきり言う人のことも、まあ別にいいんじゃないと謎の上から目線の気持ちを抱いていた。X(当時はまだTwitter)で色んなファンを見て心がモヤっとしても、それは同族嫌悪のようなものだと思ってきた。「私もワーキャーっぽいとこあるから、だからこうやってはっきり顔が好きとか表明してる人をみるとなんだかモヤモヤとしてしまうんだ」というように、(ほとんど無意識のうちに)自分を宥めていたところがある。

 それにしても「好き」というのは難しくて、人によって指す範囲が細々違っていることもある。それで、私はずっと、自分は芸人さんのことがみんなとおなじように好きなのだと思って、つまりワーキャー・顔ファン的なマインドがあると思って生きてきたのだけど、最近はどうもそうではないのかもしれないと思うようになってきた。なんと言ったらいいのか、まずとにかく私はその人が生身の人間である部分にはあまり興味がないっぽいというのがある。本当に上手に説明できなくて困るのだけど、見た目が(つまり顔や立ち居振る舞いが)好きだなという感覚は「見た目が好きだな」という以上のものではなくて、実際に見ても会ってもべつにそんな心動かされたりしない。
 最近は男性ブランコというコント師が好きで、5月に彼らの単独を観に行った。それはもうとても素敵な体験で、ああこの物語は、演者と観客とで空間を共有して観れたことに意味があったなと思える最高の単独だったのですが、結局そこでも別に、生で見てワーっとなる心みたいなものがなくてなんだか拍子抜けしたのを覚えている。これはもう全然信じてもらえなくてもよいのだけど、実は開演前、ほぼ初めての京都で怖すぎてめちゃくちゃ早く会場についてしまって、会場の中庭みたいなとこであわあわおどおどふわふわしていたら、ちょうど浦井さんの会場入りと被ってしまったらしく、後ろからおもきし浦井さんが私のカバンにぶつかったというプチ事件があった(会場内をお上りさん丸出しでふらついていた私が完全に悪い)。それでともかく、なんかこう、もっとワーっとなるかなと思ったのだけど、あ、浦井さんやわ、テレビで観たことある姿やね~としか思えなかった自分がいた。好きな芸人さんが(かなり突然かつ衝撃的な方法で)目の前に現れたのに、自分でもおどろくほど、淡泊で心が凪いでいたのが嫌だったというか。なんでなんだろうな~~ってすごく悲しくなってしまった。その直後も今も、なんとなくずっと悲しい。

 畢竟私のいう「見た目が好き」は、絵画を見てその肉体美に感嘆するとか荘厳な写真を見て心が動かされるとかそういう二次元的な意味でしかなくて、現実に生きるその人そのものにはやっぱり何の感慨もなかったんだというのが突き付けられたようで悲しかった。私にとって好きな芸人というのはどこまでいっても画面の中の人で、別にその人そのものが好きなわけじゃない。私はXでみるファンの人たちみたいに、かっこいいとか好きだなとか、心の底からは思えてないんだと突き付けられてるみたいで心がきゅっとなる。途端に自分という人間の浅さが見えたような気がして苦しくなる。普通じゃないと言われているみたいでいやな気持ちになる。よくみるポストを見かけるあの人や、あのファンの人たちみたいになりたかったなと思う。ワーキャーになりたかったなと思う。私だって心の底から「○○さんかっこいい、○○さんが好き」と表明してみたかった。嫉妬している。嫉妬している。

 いわゆるオタクコミュニティ、ファンダムに身を置いていて、大学生になってからはライブに足を運ぶことも何度かしてみて、それで少しずつ、少しずつ、今まで自分が取り繕ってきたものが削られてしまった感がある。「かっこよかったね~」「見れて感動したね~」と言ってみたり、実際に姿を見れて嬉しかったように振舞ってみたり、どれだけ取り繕ってみても、実感が伴うことはなかった。いつも心のどこかで、今回のライブこそ、実際に好きな芸人さんを見れて心が浮ついて浮足立つような思いを体験できるはずと期待していた。果たしてその期待は叶うことなく、ライブの終わりはいつも心のどこかに穴が開いたような、どっかに部品を落っことしてしまったんだろうかというような、一言で表すなら拍子抜けてしまうのだった。
 もちろんお笑いに限らず、芸事というのはライブで見ると面白さが全然違うというか、空間を共有することそのものに価値のあるコンテンツだと思っているので、そのライブに行ったことそのものは全く後悔していない。実際これまで足を運んだライブは例外なく全てめちゃくちゃ笑ったし面白かったしまた行きたいと、今でも思っている。
とどのつまり私が男性ブランコの単独に行ったときから通奏低音のように続いている悲しみというのは、私は誰かのことを積極的に、恋愛を模す形ですら好きにはなれないのだと、気付いて受け入れざるを得ない状態にまできてしまったということなのだと思う。もしかしたらそれの何が悲しいんですかと思う人もいるかもしれない。その人たちが作るコンテンツが好きで、見た目も好きで、でも別にその人そのものが(恋愛的に/恋愛を模す形で)好きなわけではない。それの何が悪いのという人もいるでしょう。私も別に悪くはないと思ってる。ただ、なんとなく、ずっとひた隠しにしてきた、あるいは取り繕ってきた何かが、もう取り返しのつかないやり方で崩壊してしまったような気がして苦しいというだけで。だから本当に個人的なことで、あの心のモヤモヤは同族嫌悪ではなく嫉妬なのだろうと、今ではそう思っている。

 1つ言っておきたいのは、これは本当に本当に個人的なことなので、たとえば自分の家族友人やはたまた見知らぬ他人が、誰かのことを恋愛的に好きにならないと言っていても、別にそれでいいじゃないって、心の底から言える。どんな形であっても、あなたはあなただと思う。でも自分のことになるとどうしようもない。普通じゃないという怖さみたいな、得体のしれないデロリとしたものが重たくのしかかって、身動きが取れなくなる。ごめんなさいと思う。家族をがっかりさせたくないと思う。悲しい、そして寂しい。

 最近はそのようなことばかり考えていて、本当にただ、純粋な温もりだけがほしいと思って、ぬいぐるみを抱きしめてタオルに頬ずりをして、布団の中で涙を流していた。ありがとうコウペンちゃんのぬいぐるみ。ありがとうハリネズミのタオル。無機質で温かくいてくれてありがとう。
 ともかくそれでもちゃんと家族のことも大好きだし友人のことも大好きだし、面白いコンテンツを作っている芸人さんのことも好きで、やはりそれがたとえ他の人とは違っていても私は私のやり方で、そして私は私の在り方で、この世界やこの世界に生きる人たちを愛するしかない。そうでしか在れない。なんとなくだけど、ようやくその踏ん切りが少しついた気がする。もしかしたら未来の私は、なにかとてつもない幸運と良縁に恵まれて、自分の家族が望むような私になれているかもしれない。あるいは私が私の在り方でいることを、家族もまた望んでくれているような、お互いがそれをはっきりと言葉に出せる日がきているかもしれない(その未来への鍵は家族ではなく私が握っているということも含めて。私がもっと自立して家族を信頼する必要がある)。ともかくどんな未来であろうとも、こういう夜があったのだと自分が忘れちゃわないように、今一度きちんと、今思っていることを全てできるだけ詳細に書き記しておいた。少しすっきりしたかな。

 これを書いているときにちょうど聴いている男性ブランコのANNXがめちゃくちゃ面白くて助かった。ありがとう。面白い会話を聴いていると、心がふわっと軽やかになりますね。夜だし。明日は(というか今日は)ヨネダ2000のANNXがあってそちらも大変楽しみ。本当にありがとうと言わせてください。

 願わくば私の関わってきた人たちが健やかでありますように。そのように締めて、この長々となんだかよくわからない文章を終わろうと思います。もしここまで読んでくださった方がいたら、ありがとうございます。あなたにも暖かい日差しのような穏やかな日々が続きますように。

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