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“普通”って何だろう?

当たり前にやってること、自分ではなんとも思っていないことを、他人から「変だな。」とか「変わっている。」とか言われることがある。そして僕自身も他人の行動をみて変わってるなって思うことがある。変だなこの人って。

ひとのことを"理解すること"ってきっとできなくて、"わかろう"とすることや"知ろう"とすることはできる。"理解する"っていうことは怖くてその人を完全に掌握したみたいな危険な匂いがする。勝手な話ではあるんだけど、この人を理解したなっていうことは思いたくない。

ひとにはそれぞれの”普通”がある。”普通”はみんな違う。そこにいいとか悪いとかそういうものはない。

ある人に言われたことがある。「私って分かりにくいって言われるんだよね」その子は誰かに自分のことを話すとよく、難しい子だねって言われると言っていた。分かりにくい子って何だろうってその時思った。


その子は「私はわかりにくいから。」って自分で言ってた。なぜか、その言葉にずっと引っかかっていた。わかりにくいって言われるその子を、わかりたいなって思った。わかりにくいって言われることってどんな気持ちなんだろうって思った。


僕は、どんな人であれそのひとの持っているものってその人がこれまでの人生を一生懸命にいきて来た結果であるんだと思う。それは他人からは変わってるとか変だなって思われることかもしれないけれど、その人にとっては”普通”なんだとおもう。その子が分かりにくいと言われるところも、その子なりに一生懸命生きてきた中で、出来上がったものだったんだと思う。


これは僕をかわいそうとか、かわいがってるとか、そういうことではないんだけれど、自分は周りから”変わってる”って言われてきた人だ。高校のときにサザンオールスターズが好きだった僕は、クラスのカラオケで”普通”に真夏の果実を歌ったら大爆笑が起きた。また、僕の中では”普通”にしていただけなのに変わったひとっていう目でみられ、1年H組に奥谷っていうヤバいやつがいるって噂されてるってまあまあ言われてきた。その度に変なんだなって思って、普通だよなとも思ってきた。(他クラスの全然知らないやつに何だかよくわからずにTwitterブロックされていたことはまだ根に持ってます笑)
僕は”普通”に生活をしていただけなのに、変だといわれるのがすごく嫌だった。

しかし、その一方で普通に生きてたり、普通に見える人たちをつまらないってなんか見下したかんじがあったのも事実だ。こいつらは変だと言われないように個性を削って生きてきたんだろうなって思っていた。普通に周りに溶け込める人のことを斜めに見ていた。(実際は僕が溶け込むことが苦手なだけなのに笑)

僕は、”普通”ってことは存在しないと思う。普通はこうだとか普通はこれだっていうことは自分の価値観の押し付け。その人の感覚は、これまでで生きてきたなかで授かったものだから、それはみんなが同じであるはずがない。

そして、他人を全部”理解する”ことはできない。できるのは”わかろう”とすることであったり、”知ろう”とすること。誰かを理解したなんてことはないと思う。
だからこそ僕は人のことを知ろうとしなきゃいけないんだとおもう。

人はみんなわかりにくい。わかる方が不自然である。
わかりにくいって言われる、その子が分かりにくいからなって思わなくていいように、なればいいなと思う。

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